39.やすらぎとは
陽が昇る――
それは明るみの中で生活する者にとって、一日の始まりを意味する。
数時間前までの大雨が嘘だったかのように、晴れやかな朝だった。日差しは天高くそびえる木々にその恵みを浴びせ、幅広い木の葉の間から漏れる輝きは緑と交わって地に降り注ぐ。地を這う生き物は憧憬と共に眩しそうに頭上を仰ぎ、これから気温がいかほどまで上がり続けるのかを、肌で感じ取る。
ふと、しなやかな影が悠然と空を横切って行った。黒い翼を広げ、橙と黄色の尾羽をなびかせる野鳥である。
その残影を僅かばかり見つめ、少女はため息をついて視線を足元に落とした。
ふくらはぎから脛へと流れ抜ける水をしばしの間、目で追う。陽光は濁った水に射し込み、ところどころ反射して散り散りになっている。
少し先では、音も立てずに枯れ落ちた木の葉が、流れに乗って遠ざかってゆく。何故だかもの悲しい気持ちでそれを見送った。
なんとなしに大きく息を吸い込むと、濃厚な草木と河の香りが全身を震わせる。
――この
滝神さまの加護のあらん限り、未来永劫続くであろう、普遍的な真実。
大地に足をつけて息をする権利を、此処で暮らす同胞の未来を、守る為ならばどんなことをしてもいいと思っていた。それだけの価値が故郷にあると、ずっと信じて疑わなかったのだ。
疑問を抱くようになったのはいつからだっただろうか。
平穏の代償とは、進歩とは、何であるのか。
背後にそびえる滝の清廉なる水が肩を打つのを感じながら、サリエラートゥは回想していた。世界を隔てる境界にできた白い亀裂が、明滅して小さくなり、やがて無に収束した時を。一部始終を見守りながら抱いた、複雑な想いを。
異界の青年たちは、生まれ育った世界に帰らずにこちら側に残る方を選んだ。そのことを想うと申し訳なさで胸が潰れそうな反面、嬉しさと安堵を覚えてしまう。
(私はひどい人間だ)
彼らは個人の願いを打ち捨てて、神の依頼を優先したのだ。それは紛れも無い偉業であった。
そんな尊い決断を讃える言葉や表情は、自己中心的な歓びによって濁されることだろう。
河から冷水を
(こんなものは、巫女が抱くべき感情ではない!)
激しく頭を振った。水を吸った髪が重く硬くなって肌を打つのも気にかけない。
(二人にも同じようにこの郷を美しいと感じ、愛して欲しいと願うのは、私の傲慢だ)
傲慢だとわかっていながらもどんどん期待が膨らんでしまったのは、彼らがあまりにも自然に溶け込んでくれたからだろうか。その誠意に応える為にはどうすればいいのだろうと、悩まずにはいられなかった。
こればかりは一人で悶々としていても仕方が無い。本人たちに訊くのが最短の道だ。と言っても、さっきまで近くに居たタクマは少し下流の岸の方で、ユマロンガに付いている。
ヒサヤの方は依然として目が覚めない。サリエラートゥは岸に上がり、頭から爪先まで濡らしたまま、仰向けの青年の傍まで這い寄った。やたらと白い頬に指一本、触れてみる。反応が無いのを見ると、今度はつねってみたりする。
(生き物じゃないみたいだ)
再度不安がこみ上がる。タクマは問題ないと言っていたが、果たしてこのまま放って置いていいのか。衝動的にヒサヤの胸に耳を当てると、確かに鼓動はあった。未だに意識が戻らないのが解せず、腕に力を込めて身を起こす――
「なんつー顔してんだ」
「だっ!?」
唐突に骨ばった手が近付いてきたかと思えば、額に鋭い痛みが弾けた。この行為が彼らの世界では「デコピン」と呼ばれるものだとサリエラートゥが知るのは、まだ先の話である。反射的にサリエラートゥは額を両手で押さえて後退した。
「ってかなんでアンタはいつも裸なんだ」
「……そ、そんなにいつもじゃないぞ。色々と穢れてしまったから洗い流していたんだ。大体、お前も裸だろうが」
全て事実である。やましいことをした覚えはひとつも無いのに、何故こんなに気圧されねばならないのか。げっそりとした表情で文句を言われる理由がわからない。
「男と女の
「は? 破壊力? 一体何が違うと言うんだ。それに血行が良くなるのが、心臓に悪いとはどういうことだ」
恒例のわけのわからない話が始まりそうな予感がして、サリエラートゥは苛立ちを吐き出した。違う、こんなことを言いたいんじゃないのに。
「よしわかった。わからせるのは面倒そうだってことだけはなんとなくわかった。いいからなんか羽織れ。あと、ちゃんと髪まで乾かせ。暑いからって油断してたら、風邪ひくぜ」
ヒサヤは起き抜けとは思えない快活さで跳び上がった。思わず身構えたが、それきり話は続かなかった。文句の内容が明らかな心配を含んでいたおかげで、こちらの苛立ちも矛先を折られたのだ。
サリエラートゥは上流の岩の上に置いておいた清潔な衣服を身に纏った。腰まである長い髪を絞りながら、再び河岸に降り立つ。
「その……気分はどうだ?」
「目を覚まそうと念じたからって簡単には覚めないもんなんだな。とりあえず、クッソ暑い」
「確かに今日は特に暑いが、雨季とはこんなものだ。なんなら、濡れて涼んでみたらどうだ」
「そうする」
素直にヒサヤは提案に従った。右足を浸してそのままするりと滑り込み、完全に潜った。数秒後には頭だけで水面を突き破る。それからは、両腕を前に伸ばして後方へと水平に払う動きを繰り返した。泳ぐという行為をよく知らないサリエラートゥの目には、その一連の動作がとても不思議に映る。
「あー、胸糞悪い。人を殺した後味なんて、およそ人生で味わう日が来るとは思ってなかった」
いつしか青年は浅場に立って、自分の両手を見下ろしている。今にも吐きそうな顔だ。実際にあの男の息の根を止めたのはタクマの方だったが、最初の一撃を与えたのはヒサヤだったと聞く。
「…………後悔しているか」
消え入るような声で問うと、彼は微かに笑った。
「まさか。後悔ってのは、自分が選択を間違えたって、後になって気付いた時にするもんだ。そもそも選択肢なんてなかったのなら、気にするだけ無駄だ」
「あったぞ。滝神さまの依頼を無視してあの亀裂を通ることだってできたはずだ。帰る、ことだって……」
「じゃあ逆に訊くけど、俺らがあの時去ろうとしたなら、アンタは引き止めなかったのか?」
一瞬だけ、サリエラートゥは呆気に取られた。絡んできた視線が、あまりに真剣だったからだ。
「引き止めていた、と思う。いなくなられると寂しい。お前たちが来てからは、当たり前のようにめくるめくだけだった日々が、色鮮やかになった気がしたんだ」――言い募ってから一拍を置いた。ついに訊かずにいられなくなる――「お前はこの世界が好きか?」
「嫌いじゃあないけど、別に好きでもないぜ」
即答だった。落胆したのは言うまでもない。
「そ、そうか」
「けど、アンタらのことは好きだ。何から何まで感謝してる。それだけで、向こうの世界に帰る可能性を手放した甲斐はある」
そう続けて、ヒサヤはそっぽを向いた。照れているように見えたので、驚いた。そして何故だか少し胸がどきりとした。
「あ、拓真の方は普通に人も世界も好きなんだと思う」
「……それを聞いて、安心した。他に何か、私がお前たちにしてやれることは無いか」
「ある。二つ」
振り向き、訊かれるのを待ち望んでいたかのようにヒサヤは食いついた。
頷きで先を促す。
「まず、あの北の部族の長だった奴の墓を、この集落のどこかに建てさせてくれ。敵だったのに、俺たちが殺した相手だってのに、変な願いなのはわかってる。何故かと言うと答えは――必要だからだ。アイツを弔うことが、俺たちにも、奴らにも」
「必要……?」
よくわからない言い分だ。わからないけれど、考えてみた。
この集落が孤立したのは小競り合いと諍いが深刻化した所為だと、年長者たちに聞いたことがある。これからもずっとそれでいいとは思わないし、だからと言ってどうやって解決していけばいいのかまでは見えてこない。
(犠牲の上に成り立つ未来。変革――)
タクマが口走っていた言葉を懸命に思い起こした。すぐには理解できそうに無かったが、とても大事なことを言われた気がしたのだ。
「アンタは幸せか?」
問いかけによって思考は遮られた。額に当てていた手を下ろす。
「何だ、いきなり」
「サリエラートゥ、『滝神の巫女姫』でいて、アンタは幸せか?」
「い、いつにも増して、言っている意味がわからんぞ」
名前を呼ばれてたじろいだ。幸せかどうかなど考えてもみなかったことだ。最も適性があったから巫女姫になった、ただそれだけである。そこに自分の意思は無かったし、当然のように死ぬまで責務を全うするつもりでいたのだ。
「生贄システム。あれはなくていいものだ。廃止するように滝神に掛け合うから、立ち会ってくれ。それに集落民の説得も頼む」
「いいのか? 元の世界との繋がりを絶つことになるぞ」
異界から飛ばされてくる死体を見たところで郷愁の念が報われるわけではない。だが完全に繋がりを絶つとなると、心細くは無いのだろうか。
「未練はまあ、ずるずる引きずってその内割り切るだろ。向こうとの繋がりが完全に消える前に、手紙でも送れたらいいんだがな」
「『手紙』とは何だ」
「文字をしたためた物で意思の伝達をする方法。文字ってのは前も説明しようとしたはずだ。簡略化した絵っぽいのもあるし、そう考えればわかるか?」
「だったら絵を使えばいいじゃないか。子供の落書きみたいなぐりぐりした模様から何の意味が読み取れる?」
「絵で会話したら個人の感覚に頼りすぎて意味が通じないこともあるだろうし、文字みたくコンパクトにたくさんの情報を羅列するのは不可能だ」
「そんなにたくさん、何を伝える必要があるんだ。それなら直接会えば早い」
「会えない事情があるから手紙を書くんだろーが!」
突然の剣幕に思わず仰け反った。だがすぐにヒサヤははっとして、バツが悪そうに前髪をかき上げた。
「怒鳴って悪かった。これからこういう会話を根気良く繰り返していかなきゃダメなんだよな」
「しかし正気か? 神力を欠いた生活など、私には想像もつかない」
「備えと蓄え、後は無駄をなくせば、神力によるブーストが無くてもありのままの自然の実りで十分に生きていけるはずだ。足りない分は、周囲の部族とうまく交流してやりくりすればいい」
返答に合わせて、ヒサヤの表情はまたしても真剣そのものになった。
馴染みの無い単語ばかりである。サリエラートゥは理解に苦しみ、相槌を打たなかった。
「言ったはずだ。アイツが最後、と。もうアンタが頻繁に人を切り捌くこともなくなる。巫女姫として何もかもを背負うことも。次に生贄が現れるまでに皆を納得させるのは無理だろうけど、それでもやってみる価値はある。あれは効率の良いシステムだったけど――ダメだ。腑に落ちない」
そこまで言われて、サリエラートゥはふと普通の少女になり下がった自分を想像してみた。普通に食物を採集し、料理をして、友達を作って、遊びに行ったりして、果てには家庭を持つ自分を。それは甘くて優しい妄想であった。
我に返ると、別のことに意識が向いた。自害を選んだ界渡りたちを見届け続ける彼らの心境が、どんなものであったのか。歪んで狂った同郷の者の末路に、何を想ったのか。
気が付けば決意は固まっていた。
「いいだろう、付き合おう。お前たちが根気強く説明してくれるなら、根気よく聞くのが礼儀というもの。元を辿れば今回の騒動は界渡りが起こしたのだ。思えば民の中にも、異界と繋がる路を閉ざすべきだと訴える声はある」
「ありがとう。恩に着る」
この試みは、すんなりうまく行きはしないだろう。今後の生活を支える為には他の部族と本格的に交流を深めることになる。北の部族を思い出すだけで、サリエラートゥ自身も目の前が真っ赤になるというのに。捕虜をひどい目に遭わせてやりたい欲求は勿論、ある。
だけどそれではいけないと青年たちは言うのだ。
――生贄に、神力に頼らない時代が来るかもしれない。
とてつもなく大きな変化だ。
恐ろしさは無い。それどころか、どんな気持ちになればいいのかさえもわからない。
ふと、ヒサヤが下流に向かって泳ぎ出した。なんとなく自分も下流に沿って歩くと、ちょうどユマロンガが起き上がったところを、タクマが正面から両肩を支えてやっていた。
(ああ、神力の供給がなくなれば言葉の壁も厚くなるだろうに)
近付くにつれ、会話が耳に入り込んできた。
他部族の言語もマクンヌトゥバ語とは十分に違うが、タクマたちのそれとは比べ物にならない。が、本人たちが気にしないなら、自分が異を唱えるのはおかしい。
「君は戦が嫌いだって言ったのに、死人も出た――」
「あんたのせいじゃないでしょ。悪いのは敵よ」
「でも」
「怒って欲しいなら、後でしこたま怒ってあげるわ。今は、帰ってきた人の無事を喜ばせて」
ユマロンガは囁くように、タクマの鎖骨辺りにもたれかかった。対するタクマは彼女の肩を抱き寄せる。
(なんだ。なんなんだ、これは)
このやり取りを横から見ていることに急に謎の罪悪感が沸き起こった。視線を彷徨わせ、ヒサヤの方はどうしているのかと気になって一瞥すると、そちらは全くの無表情で二人を見守っている。
「ムヲンゴゾは生き残れましたか?」
つぶらな黒目がこちらに向いた。ムヲンゴゾという戦士は、ユマロンガの一番上の弟である。サリエラートゥは大袈裟なほど大きく頷いてみせた。
「そう、よかった。あんたもよ。帰ってきてくれて……ありがとう」
心底気が抜けたように、彼女は涙した。タクマの胸板に着いた血痕に手を触れ、ぐっと俯いた。涙の滴が次々と零れ落ちる。
目を細め、タクマは俯く顎を指先で軽く持ち上げる。
「ん。ただいま、ユマちゃん」
――こつん。
額と額をそっと合わせて交わされる笑顔に、平穏の縮図があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます