01.普通に恥じらえばいいのに
気が付いたら水の中だった。
泥やら藻やらでひどく濁った水だ。そこら中で水草が呑気に揺れている。ずっと先にある太い水草はまるで蛇が如くすいすいと泳ぎ去ったように見えたが、気のせいだろう。
小早川拓真は鼻や口からブクブクと泡を吹きながら朝霧久也と顔を見合わせた。
手振り足振りなんとか意思疎通をしようとして、すぐに無駄な努力だと諦めた。自分が何を言いたいのかそして相手が何を言おうとしているのか全然わからないし、酸素獲得が先決である。
「ぶはっ!」
水面はそう遠くなかった上、河岸も遠くない。とりあえず岸まで泳いでみて、柔らかい底に足をつけた。
辺りからは潮の香りがしない。もっと濃厚な臭いが入り混じった、もわっとした感じだ。
何より気を引いたのは外の空気が暖かいことだった。いや、この場合は水が冷たいのか?
「って、久也! 大丈夫?」
拓真はすぐに親友の安否を問う。後ろを振り向いたら、塗れた黒髪を目元からどける久也が居た。
「ああ、平気だけど……」
彼は怪訝そうな顔をしている。濃い茶色の双眸は拓真を見ていなかった。
「どこだ、ここ。死後の世界ってヤツか?」
「え?」
そう言われてやっと、拓真は周囲を見回した。
「え~~~っと……」
視界に入った風景は、想像していた台湾の海とは全くの別物である。
二人が眺めているのは河だ。現在地では岸から岸までの距離、目測二十メートル。
両岸は繁茂した草と、さまざまな形の植物に覆われている。
右には立派な滝がそびえ、十五メートル以上の高さからドバドバと大量の水を落としている。
「……常夏だね」
背後の豊かな緑の中にマンゴーの木やパームツリーを見つけた。そのくらいならまだ台湾に居ると考えられなくもないが。
空を仰いでみる。
雲間から漏れる陽光の熱に違和感を感じたのは、台風予報のことを思い浮かべていたからってだけが理由ではない。太陽が近いような、やたら大きいような気がする。
「タイムスリップかな?」
「……漫画の読みすぎ。一体どれだけ時間を戻れば新台北市がこうなるんだ。他に可能性はあるだろ」
拓真の提示した可能性を久也がバッサリ切り捨てる。
「他って、どんな?」
「幻覚を見てるとか、夢を見てるとか」
「えー、二人で同じ幻覚なんて見るもんじゃないじゃん」
「ってことはやっぱり死後のなんたらか。まあ、怪しい煙を同時に吸ったかも……」
「じゃなくて、異世界だよきっと!」
そうだ、それがあった。思い至ったからにはわくわくしてきて、拓真は周りにきょろきょろと視線を走らせた。どこからか、トロピカルな鳥の鳴き声が聴こえる気がする。
ワイシャツの裾から水を搾り出していた久也が、ピタリと動きを止めた。
「だからお前は少年漫画の読みすぎだ」
「夢のないことゆーなよー」
「すると何か? 神隠しに遭った藍谷サンの兄貴も捜せば出てくるのか?」
「そこまではわかんないよ」
はぁ、と久也が長いため息を吐く。
「大体、異世界トリップものの定番といったら剣と魔法というオプションをくっつけた上で、中世ヨーロッパじゃないのか。ここはなんていうか……アフリカ?」
「熱帯雨林といえば南米か東南アジアだよ」
「多分、ここは熱帯だけど雨林じゃないんだろ。そういう問題じゃなくて――」
――ザバァ。
言い合う二人から離れた位置で、大きな水音がした。
自然と黙り込んだ拓真と久也が、首だけを動かして音のした方を振り向く。滝の傍である。
河の中心から、女性の頭がのぞいた。
女性は二人には気付かないのか、そのまま同じこちら側の岸に向かって泳ぐ。岸から斜めに伸びる木の幹を支えにして、しなやかな裸体を優雅に水から引き上げ、幹の上に腰をかける。
波打つ黒い髪は腰までの長さがあり、その合間からはたわわな乳房と柔らかそうな腹部が見受けられる。
女性は長い髪を首の右横に寄せて、指で梳いている。肩からうなじへの美しい曲線があらわになった。
顔立ちは遠くからもわかる綺麗な卵型で、高い鼻や
褐色肌には赤銅色に近い深みがある。たとえるなら溶けたミルクチョコレートのよう――
「おい、よだれ垂れてるぜ。垂らすならせめて鼻血にしたらどうだ」
呆れていながら笑いを堪えている、と言った具合の久也の突っ込みで意識が引き戻された。
「だって……うわああ……超絶美少女っていうかおいしそうっていうか……おれ生きてて良かった……!」
「美人ではあるな。エチオピア系美女? 相当にエロくていらっしゃる」
置かれた状況に抱いていたはずの疑問が、残らず脳の隅に押しやられた。
現代を生きる女性にはなかなか見られないような、野性的なバイタリティ。それを全身からほとばしらせる彼女は、十代後半くらいの若さに見えた。
「なんとかお近づきになろうよ」
足が勝手に動き出した。
「待て拓真。早まるな」
久也の制止の声もむなしく、拓真は美女に惹かれて草をかき分け始めた。
間もなくして女性が素早く顔を上げる。
白目のくっきりした美しい黒瞳と柳のような眉毛が目ヂカラを引き出していて、思わず息を呑まずにはいられない。無表情なのにそれがまた綺麗だ。
「こんにちは!」
気付かれたからには歯切れのいい声を出して挨拶をした。拓真は精一杯のいい笑顔を向けてみた。
(ダメかな……やっぱ怒られるかな……)
何故か桶を投げられる想像が脳裏を過ぎる。一体どこのベタなラブコメ漫画展開だ、とさすがに自分で突っ込んでしまう。
女性は無表情のまま、局部を隠す素振りもなく、木の幹から飛び降りて踵を返した。
「ま、待って!」
一瞬だけ見とれて固まってしまった。遅れて呼び止めようとする。
女性は拓真の声など無視して、茂みへと何かを取りに行っていた。そしてそれを掴み上げてまたくるりと回って戻ってくる。
長い棒状の、先端が灰銀色に輝いている代物だ。
「槍!?」
「じゃなくて、銛!?」
拓真の驚きの声に続いて、近くまで追いついていた久也の声がした。
「どっちでもいいから、逃げるぞ!」
久也が拓真の襟首を掴んで引っ張った。
二人は女性に背を向けて走り出すが、草が邪魔でうまく進めない。
女性は背後で何かを喚いている。
「見事に何語がわかんないや!」
「ああいう時は何語だろうとブチ切れてるんだよ!」
「そうだけど――って、うげっ!」
必死に逃げる二人の前に、更にまずい事態が訪れる。
女性の叫び声に引き寄せられたのか、茂みの向こうから十人ほどの人影が集まってきたのである。草が長いので人々の姿はよく見えないが、全員が揃って槍を構えているのはわかる。
拓真たちは途方に暮れて思わず足を止めた。
その隙に。
背後から、ドッ、と何かがぶつかったような音がした。
「何?」
肩から振り向いて状況を確かめる。
そこには、背中に銛を生やした親友の姿があった。衝撃で一度たたらを踏んでから、前のめりに倒れる。
「――――――っ!」
刹那、拓真の目の前が真っ赤になった。
気が付けば全裸の女性に殴りかかっていた。
それから先、何があったのかは、あまり覚えていない。
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