22 満月の迫る町

 しばらくの間、ベットの端っこにちょこんと座りうわの空となっていた雪だったが、遠くから聞こえた陸の呼ぶ声だったり、コニーが走り回った時に鳴る生きた鈴の音で雪は意識が戻った。

 子供部屋を後にして、しっかりと扉を元の通りに閉じて何も手に持たずに一階に降りると陸がケロッとした顔で少女の顔を窺った。


「絆創膏は見つかった?」


 少女の心はまたあの部屋に忘れてしまったように反応に遅れてしまったが、少年に名前を呼ばれて慌てて首を振ってこたえた。


「ごめんなさい、見つからなかったの」

「雪ちゃんが謝ることないよ。僕が勝手に指切っちゃっただけだし。それに傷も思ったほど深くなかったみたいだし、ほとんど止まってるから大丈夫。マキおばさんが帰ってからでも遅くはないよ」

「ならよかったわ。もー、ほんとに今度からは割れたガラスは触っちゃダメよ!」


 雪は調子を取り戻してそんな風に、いつもの元気で活発な少女を思わせる言葉を投げかけた。

 マキが帰ってきたのはそれから太陽がほんの数度程西に傾いてからだった。


「遅くなっちゃってごめんなさいね――――陸君? それは⁉」


 陸の右手にまかれた血の染み付いたタオルを見て大慌てで駆け寄った。


「ごめんなさい。コップを一つ割っちゃって……」

「コップなんていいのよ。それよりも傷口を見せてごらん」


 マキは傷口を確かめるなり、安堵のため息をはいた。それから、洗い物をありがとうね、と二人の頭をポンポンと撫でた。

 結局、救急箱は一階の棚の上から取り出していた。いつもいる場所であっても小さな子供には当然見つかるはずもないようなところだった。もちろん、雪はマキには二階の子供部屋については聞かなかったし、寧ろ黙っていようと思った。正直、マキに子供がいるのかだったり家族だったりが気になるところだったが、そんなことを訊けば部屋に入ったことがバレてしまう。その日は我慢して気になって高まる心を落ち着かせた。


 *


 雪がマウスのところに訪れると、相変わらずいつもの公園の木のベンチで難しそうな本を読んでいた。しばらく少女が遠くの方から観察していると、マウスは時々頭を掻いたり、鼻をゴシゴシこすったり、たまに欠伸あくびしたりで隣に大人しく座っている子猫のようだった。それから雪がマウスの前に現れると、いつものように笑顔で迎えてくれた。最初に出会った時よりも少なからず変わったところだ。


「こんにちわ」

「やぁお嬢ちゃん」


 この日のマウスはごく真面目に「恋」についての話をしてくれた。雪にとっての恋は、温かくて、幸せに溢れていて、笑顔になれることであったりする漠然とした感覚で捉えているが、それはもちろん間違えではなく寧ろそれがもっともな答えであろう。しかし、マウスは沢山の事を教えてくれる。例えば、恋をすれば周りが見えなくなったりすること、恋をすれば時間が早まったりすること、恋をすれば失うのが怖くなること、恋をすれば執着してしまう事、恋をすれば……。本当に沢山の事を教えてくれた。そして彼はそれを総じて恋は「魔法だ」といった。魔法はかかるしかけられることもある。一度かかると覚めないこともあれば覚めてしまう事も。とにかく、その魔法は良いようにも悪いようにもなるのだと言った。


「じゃあマウスも魔法にかかるってことよね?」

「そういう事になるね。けれどそれは難しいことだよ」

「どうして? 雪も魔法を使いたい!」

「僕はもうお嬢ちゃんの魔法にはかからないんだ。魔法は二重にはかからない」

「じゃあ、マウスは誰かの魔法にかかっているのね!」

「どうだろうね」

「雪はマウスに幸せになってほしいの! マウスのことが好きだけれど、雪はマウスが笑っていれば嬉しい!」


 マウスはうっすら笑うと遠くを眺めた。それ以上は恋の話をせずに、今度は別の話を始めた。それはユズの話であったり、本の難しいはなしであったり。その代わりに雪もマキの家での不思議な出来事を聞いてもらった。マウスはそれを実に興味深そうに聞いてくれたが、彼はそれを不思議な話だね、といっただけでそれだけだった。


「もうじき満月だ」

「どうしてわかるの?」

「月は決まった周期で姿を変えるんだ」

「周期って?」

「お嬢ちゃんは太陽が昇るころに目が覚めて、太陽が沈んでいるころに布団で眠る。これがお嬢ちゃんの周期だよ」


 雪は何となく理解してぱっと顔を明るくして頷いた。


「じゃあお月様はとっても規則正しいのね! 雪は夜でも時々眠れないときがあるもの」

「そうだね。僕たちは規則正しく生きなければいけない。規則正しさは太陽や月のように人それぞれ違うけれど、それでも規則正しい周期で生きなければいつか体も壊れてしまうんだ」

「そんなの嫌だわ。雪は規則正しく生きる!」


 そんな雪にマウスはそうだ、とうんうん頷いた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る