9 パン屋のある町

 雪は今日もマウスの元に行った。結局、昨夜の大吾郎への返事はこうだ。


「構わないけれど、本人に聞いてみなくちゃ」


 大吾郎はそれ以上、少女に対して何も追及できずに、頷くだけだった。



「やぁ、お嬢ちゃん」


 少女はまた、マウスと名乗る男の前を訪れた。相変わらずの身なりであり、少女に気が付くと読んでいた小難しそうな本に、真っ黒の先が解れた詩織スピンを挟み、パタン……と閉じた。


「こんにちは、何を読んでいるの?」


 マウスはまるで大吾郎のように不思議な間を空け惟た。


「哲学書だよ。忘れていたことを思い出す本さ」

「ふ~ん。マウスは復習をしているのね」

「そうだよ。復習は大事だ。人は何だって忘れてしまう生き物だからね」

「雪のお友達のフクロウ君も言ってたわ。練習が大事だって。だからフクロウ君は絵がとっても上手なの」

「確かに練習は大事だけど、実はもっと大事なことがあるんだよ」

「大事なこと?」


 雪は大事なことを思い描く。けれど、その浮かんだのはの答えではなく、大吾郎の顔だった。雪がその時感じた思いはまるで年寄りの大吾郎に似ても似つかない男の質問。要するに、大吾郎のように考えさせ、安心感のある声とトーンで雪の心臓の鼓動を激しくさせる。話していて、考えていて、ワクワクするのだ。

 そして雪がぼーっとしているのを見てマウスは言った。


「様々なことに触れることだよ」


 雪の頭の中はこうだ。熱を感じるの? その肌触り? 形? 様々なことが浮かぶ。

 雪の反応は実に分かりやすい。男も少女がその答えにピンと来ていないのを察すると、言葉を付け加えた。


「正解はないんだ。ただ、何かを得るにはそれだけではダメなんだ」


 そして、男は言った。


「安心しな。お嬢ちゃんにもいつか必ず分かるときがくる」


 やっぱりマウスは大吾郎に似たところがあるのだと思った。マウスは大吾郎のように、導いてくれる。決して明確な答えではないが、確かにそれは道を切り開くのだ。

 男は昨日と同じように、時間だ。と呟くと背中を任していたシャッターから体を離し、スッと立ち上がった。


「今日もパンをもらいに行くの?」

「あぁ、もちろんだよ。捨てるというなら僕が引き取る」

「捨てるなんて勿体ないものね」

「お嬢ちゃんはお利口さんだ」


 褒められるのは良いことだ。少女はそんな些細なことでも褒めてくれるマウスが好きだった。マウスの服は相変わらず汚れきっている。決して容姿端麗であるとは言えないが、澄んだ心を持っている。大吾郎は言った。大人はみんな忘れていく。けれど大人であるマウスは忘れていない。良い人だ。

 少女は昨日、大吾郎に信用できる人なのかという質問に実は確信がついている訳ではなかった。今だってそうだが、それは目には見えないのだ。だから、もう少しだけでも彼と話そうと思った。

 昨日と同じ、パン屋の裏口に着き、あの不思議なノックをする。

  コン、コンコン――コン、コンコン――コン、コンコン――

 そして少しするとあの女性が姿を現した。もちろん幸せ感じるパンの香り付で。


「やぁ」

「……ちょっと……」


 明らかに女性の顔は少女を見て引きつり、マウスの顔に訴えた。それに気が付いた雪は不安そうな顔をした。


「こんにちは雪ちゃん」


 普段は華奢な体に似合わず元気いっぱいの声でいて、誰とでも会話できる少女だが、その一瞬の独特な雰囲気を感じ取り、女性店員の挨拶を程ほどに返し、マウスのズボンをぎゅっと握り影から顔を覗かせた。

 女性は手に持ったパン耳の入った袋を昨日のように渡さずに。その代わり少女に、ちょっと待っててね。と言うとマウスを裏口の扉の内側に引き入れた。

 少女はマウスが出て来るまでのほんの数分間がとてつもなく長く感じた。少女はその長い間に良からぬ考えが巡りに巡り、ついには泣き出しそう。としたその時、ゆっくりとパンの香りと共にマウスが扉から出てきた。男の差し向ける笑顔を見た雪は思わず足に抱き着いた。


「雪ちゃんどうしたの? 何かあったの?」


 マウスの後ろでは、雪を心配する女性の声があった。抱き着かれた男も状況を上手く掴めずに、幼馴染である女性店員の顔に助けを求めるように見た。

 それを見かねた女性はゆっくりと少女の目の高さまで腰を落とすと、小麦色の綺麗でいてか細く、ほんのりパンの香りのする手で雪の頭を撫でた。


「雪ちゃん。昨日のパン、美味しかった?」


 なんだか雪は安心した。その不思議な言葉に怖がりながらも頷くと、よし。と言い、立ち上がると店に戻り数分後、今度は袋をかざして現れた。


「今日は杏子パン。良かったら食べて」

「ありがとう」


 普段からきちんとお礼を言える雪は、女性の親切に対して弱弱しくはあるが、しっかりと女性に感謝を伝えた。

 パン屋を離れた後、昨日と全く同じ公園のベンチに腰かけて、瓶に入った牛乳とクルミパンをマウスから受け取るとパンを半分にちぎり、その一つを手渡した。マウスはぎこちなく、ありがとう、と言うと一口食べて、甘い。とニコリと言った。パンはデニッシュ生地で、細かく切られた杏子が散りばめられている。生地はとても柔らかくて、雪好みであった。


「すっごくフワフワしてるし、杏子が甘くておいしい!」


 雪が普段食べるパンは毎朝のように食べる食パンか、よく、スープと一緒に食べる硬いフランスパンだ。そのため、いたって有名なデニッシュ生地も初めてで、幸せな気分にさせてくれた。

 けれど、そのパンをくれたのは先ほどの女性であることは変わりなく、自然とさっきのことを思い出して、少女はしょぼんとしてしまった。


「お嬢ちゃん、さっきはどうした?」


 雪を見るでもなく、何となくで聴いた風だが、それでも男はそれなりに少女を心配しての事だった。


「パン屋さんのお姉さん……なんだか怒ってた……」

「まさか」

「だって……」


 牛乳をまた一口飲むと言った。


「何で、お嬢ちゃんに怒るの?」

「それは分からないわ……。けど、目が怒ってたの」


 マウスは少し思い出すように、それとも適切な言葉を探すかのようにして、答えた。


「きっと、毎日のように来る僕のことが嫌なんだよ。それに、見慣れてないことに遭遇すると、誰だって警戒してしまうものだよ」


 マウスの言葉は少女の心を射止めたかのように、納得させた。それ以上は少女も考えるのを止めて、残りのパン耳を牛乳と一緒に口に入れた。

 そしてお昼ご飯であるパンを食べ終わったとき、少女は今日の目的であるお願いをしてみた。

 公園では少女よりも年下の子もそれ以外の子供も公園の錆びれた遊具で遊んでいたり、砂遊びをしている。無論、大人たちは何かを警戒するようにして見守っている。昨日とは恐らく違う人たちで、たびたびこちらを見ているのを感じるが、二人はどうったことはない。


「雪のおじいちゃんが、マウスに会いたいみたいなの」

「お嬢ちゃんのおじいちゃん?」

「うん。雪のおじいちゃんは画家なのよ! とっても絵が上手なの」


 マウスは驚いたような表情を浮かべた後、また、前を向き直り、遊具で遊ぶ子供を眺める。そして、雪の話を拾う。


「お嬢ちゃんはおじいちゃんと一緒に住んでいるのかい?」

「えぇ、おじいちゃんと二人暮らし。お父さんとお母さんは……」


 不意に出てきた言葉に雪は言葉を濁すようにして黙り込んだ。


「お嬢ちゃんはおじいちゃんが好きかい?」

「もちろんよ」


 雪はすかさず答えると、笑顔になった。それは悲しい笑顔。見ている方は胸が締め付けられる。男は、そうか。と薄ら笑いであるが彼なりの笑顔を作った。

 結局、マウスは雪に大吾郎には会わないと言った。勿論、雪はそれに対して反発するような顔を浮かべて理由を聴いた。マウスはさも用意していたような事を言った。


「僕から、おじいちゃんに挨拶をしに行くよ。お土産でも持ってね」


 そんな、マウスの返事に満足以上に、魅力的だとすら感じて、その時を想像して今日一番の笑顔の花を咲かせた。

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