10 美味しいが香る町

 この日、雪は久しく会っていなかった友達に会いに行った。といっても会っていなかったのは、ほんの数日。少女の感じる時間は恐らく通常の倍はあるのかもしれない。彼女にとっては一日一日が何物にも代えがたいのである。

 とはいえ彼は別で、雪に気が付いた彼はいつものように挨拶する。


「こんにちは、雪ちゃん」

「こんにちは、フクロウ君」


 フクロウと呼ばれる、雪と同い年でいて寡黙であるが抜かりのない少年。彼は決して貧しい家庭でもないが、いつも麻でできたグレーのプルオーバーを着ている。特にお気に入りなわけではない。ただ、あるとき偶々着た服を今も着ている。というのは、それを気に入っているのだと勘違いした両親が、同じ服を何着も買った。だから彼の服は汚れていることがない。


「調子はどうだい?」

「気分は良いわ」

「そう。じゃあ抜け出せたんだね」


 普段から無表情でいてあまり他人に興味を見せない彼だが、陸と雪に対しては多少の興味を示す、唯一の友達だ。

 そんな彼は雪の返事に少しの変化を見せた。口角だけが動き、目はしっかりと雪をどこを見るでもなく捉えている。彼の本当の感情は分からないが、雪はそんなこと気にしない。

 

「絵は今お休みしているの」


 さっきまでも、微妙な顔の変化だったが、今度も少しだけ表情が変わった。そして彼は落ち着いた調子で尋ねた。


「どうして?」

「おじいちゃんがそういったの」

「そう」


 少年はそれ以上は雪に興味を示さずに、止めていた鉛筆を動かし始めた。

 彼はいつも同じ絵を描く。正確かつ丁寧は彼のモットーなのかもしれない。彼は町一番である「芸術を愛する町」にも負けない絵をスケッチブックに収める。完成していないのに、壁に描かれたその絵はそう呼ばれる。町の誰かが呼び始め、その名前が定着しているのだ。

 福が鉛筆を丁寧に扱って黒一色で描いていく。黒一色だが微妙な筆圧の変化で臨場感が出ている。その絵は、風景が切り取られたかのようで、写真そのものだ。

 少年がある程度絵を進めて、休憩がてらに鉛筆を置くと、雪が待っていたかのように少年に話しかけた。


「スケッチブックの中身を見せて?」


 福はじっと少女のことを吟味するかのように見つめた後、手に持っていたスケッチブックを彼女に手渡した。雪がペラっとページを捲ると、今描いているものと同じ絵がそこにあった。唯一違うのはその絵が完成していること。


「フクロウ君、凄いわ」


 雪が驚くのも当然で、彼は町で期待の画家なのだ。


「何がすごいの?」

「こんなに沢山。どれも上出来よ?」


 雪が驚いたのは絵の技術だけではない。そのスケッチブックのどのページも全く同じ絵が描かれていた。彼は天才でいて努力家なのだ。雪がその一つ一つの作品を見比べるが、一目で違う部分を探すのは不可能であろう。プリントされたかのような作品は、誰もが納得する少年の技術だ。


「僕はまだ鉛筆でしか練習してきてないから、こんなことどうってことないさ。練習したら誰だって描けるよ」

「そんなことないわ。雪は練習してるけれど、一度として同じ絵を描けたことがないわ」


 雪の言葉を聴いた少年は明らかに目を丸くした。そしてもう少しで言葉が出ていたところで彼は口を閉じて画題である町を眺めた。

 そしてちょうどそこに陸が現れた。陸は雪の目の前でいつものように少し戸惑うと、目元をフードで隠して短く挨拶した。


「やぁ、雪ちゃん」

「あら、こんにちはリス君」


 陸は雪に夢中だったため、挨拶だけで恥ずかしがり目を逸らした先にいた福に気が付いたのはそれからだ。


「なんでフクロウがそこにいるんだよ」

「やぁリス君。最初からここにいたよ」


 相変わらずの陸のフクロウ嫌いだったが、久しぶりにそのやり取りを見た雪は心の底から笑った。

 

「ねぇ、これから三人でマキおばさんのところに行こうよ」

「僕は構わないけれど、フクロウは絵の練習があるから残念だけど――――」

「僕も行くよ。マキさんにアドバイスを貰いたいからね」

「ちぇ……」


 唯一、陸だけは不満があったが、雪は久しぶりに町のお友達みんな(リス君にフクロウ君、マキおばさんにコニー)と集まれることが嬉しかった。

 それからマキの家に着いたのは子供たちの大好きな時間だった。マキの家から香るその匂いに導かれるようにして三人はたどり着いた。


「あら、いらっしゃい。丁度、スコーンが焼きあがったところよ」


 三人は顔を見合わせてクスリと笑った。雪と陸は勿論、福も、マキが作るおやつが大好きだ。そしてマキの家に来た一つの目的でもあったのだ。もちろん、毎日のようにおやつが用意されている訳ではないのだが、三人が揃って来たときには、素敵な一日ね、と言いながら嬉しそうに何か作ってくれる。今日に限っては運がいいのか早速出来立てのおやつにありつける。

 足元ではコーギーのコニーがそれぞれに挨拶するように三人の足元を駆け回る。雪が元気よく名前を呼び、駆け寄ったコニーの顔をムニムニとすると何とも嬉しそうだ。


「コニー! コニー!」

「ワン! ワン! ――――ワン!」


 コニーは雪のことが大好きだが、三人の中で一番好きなのは福だ。特別、福がコニーを可愛がっている訳ではないのだが、犬にだって好みがあるのだろう。雪と一緒になって体を撫でていた陸を後にすると、恰も飼い主の元に戻る様に福の傍に座った。福がコニーに挨拶をするとじっと目を見てまるで笑っているかの表情を浮かべ、大人しく尻尾をフリフリと動かした。


「あらあら、どうやらコニーは福君のことがお気に入りのようね」


 マキは可愛らしいブタのオーブンミトンを手にはめて、黒い板をテーブルに置いた。熱いから触っちゃダメよ。そういいながら手際よく出来上がったスコーンを大皿に乗せ換えていき、ついでに作ったというリンゴのジャムをテーブルに置いた。

 四人はテーブルに座る。雪の隣には陸が。陸の正面にはマキが。マキの隣には福が。その椅子の下にはお行儀よく頭を撫でられて座っているコニーが。マキの、食べましょうか、という言葉で雪と陸は出来立てでアツアツのスコーンを手に取った。半分に割ると、出来立ての証拠であるかのような湯気がホワンと浮かんだ。最初は何も付けずにかじると、サクッとする食感と同時に不思議な味が広がった。すかさず雪が尋ねる。


「何だかいつもとは違う!」

「今日は少しだけ塩を振ったのだけど、合わなかったかしら」

「うぅん! そんなことないわ。とっても美味しい!」


 雪は満面の笑みで答え、それに続くように陸も福もそれぞれ美味しさを伝えた。スコーンが口からなくなると小麦の香りが口に広がっていい気分だった。

 三人がスコーンに食べるのを確認したマキは、立ち上がりキッチンでミルクティーを淹れた。そして出来上がったミルクティーをそれぞれのテーブルの前に置くとまたキッチンに戻った。


「クゥーーーン。クゥーーン……」


 福の足元では大人しく座っていたコニーが甘えるような甲高い鳴き声を上げ鼻をひくつかせる。


「コニー。残念だけど、これは君は食べちゃダメだよ」


 そうは言えど、コニーにとっては人間の食べ物ほど魅力のあるものはない。何でも自分の鼻元まで近づけて確認しなければ諦めがつかないのだ。

 そこにマキがドックボールを手にもって現れた。


「コニーはこっちね」

「マキさん、僕があげます」

「あら、福君。頼んでもいいのかしら?」

「ええ。任せてください」


 福がボールからコニーが一口で食べられるように切られたリンゴを一つずつコニーにやると、コニーはリンゴを口に含み、零れ落ちないようにハフハフと熱いものを食べるときのように、尖った牙でリンゴを噛み砕いた。

 一方、スコーンの味を存分に楽しんでいる二人は手作りジャムを付けたり、蜂蜜を付けたりして、口がパサつくと、甘いミルクティーで口を潤した。

 マキはそんな二人の何とも幸せそうな顔を見れることに何より満足し、甘いミルクティーを口に流した。

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