11 犬が駆ける町

「コニー! こっちだ!」

「違う違う。コニー! こっちにおいで!」

「ワン! ハッハッハァッワン!」


 お腹を満たした雪と陸はマキの家の広くて美しく芝を生やした庭でコニーの相手をしている。と言ってもコニーは七歳であり、人間でいうと既にいい大人だ。寧ろ二人はコニーに相手をしてもらっていると言ってもいいかもしれない。

 コニーはお気に入りである骨を一生懸命咥えて戻ってきては、少女の手から放たれた骨めがけて果敢に駆ける。


「コニーはとっても足が速いのね! リス君とどっちが早いのかしら?」


 その雪の偶発的に出た言葉が陸の心に火を灯した。


「コニー。僕と勝負だ」


 陸には自信があった。何しろコニーを見れば勝ったも同然。短い脚に開きっぱなしの口からは長い舌がたらんとぶら下がり、その愛くるしいほどの体つきにのほほんとしたおバカ顔。自分に劣っている部分など無いかのように少年は被っていたフードを脱いだ。

 そして少年は雪にお願いして庭の端っこに移動してもらい、陸と状況を把握できないコニーは連れられるまま定位置に着いた。コニーは少女の手に握られた骨をじっと見つめて離さない。そんな可愛らしいコニーを少女は悪戯にフェイントし感情を高ぶらせる。


「コニー、ズルいぞ。雪ちゃんが骨を投げたら追いかけるんだ」


 陸はそういうと、コニーの位置を戻そうとするが、意外にも強い力でそれを拒む。しばらくすると少年は観念して、コニーと同じ位置に着いた。


「雪ちゃん。準備は良いよ。思いっきり遠くにね」

「分かったわ――――――えいっ」

「ワン! ワンッ」


 少女の手からは骨が大きく放物線を描いて放たれた。常にターゲットから目を離さなかったコニーはそれが投げられた方向に体を向けた。短い脚は小回りが利き、同じくその短い後ろ足は力ずよく地面を蹴ってくるっと百八十度した。

 しかし、隣の陸も負けてはいない。首をするりと正面に向くのと同時に足は動く。さすがのコニーもその人間優位な面では敵わない。

 スタートこそ陸がまさった。けれどコニーも負けてはいない。人間に対して下等動物と言われる犬も汚名返上とでもいう様にプライドを掛け、力強くバネのように跳ねる足が大地を蹴り上げる。重たそうな腰からお尻がぷりぷりとして揺れ、一度スピードを出せば止まることを知らないかのように一気にトップスピードに。そして隣にも同じように駆ける陸の姿に競争心を高ぶられ、さらにスピードを上げた。


「リス君も頑張れ!」


 コニーに追い返された陸は、すぐに諦めそうになる――――が、少女の声援が耳に伝わり、背水の陣を敷いたかの如く力を振り絞った。

 ウッドデッキではマキと福がその様子を眺める。マキはいつ見ても笑顔だが、福の顔も僅かながらその表情を緩めているよう。そんな二人を横切る瞬間に陸は福と目が合う。時間にしては一秒すらない。右足が力いっぱいに踏み込んで地面を離れる。そして次に地面に触れるまでの僅かな時間。――――絶対に負けてなるものか。陸は顔を正面に向き直ると、目指すは目の前で揺れ動くお尻。さっきよりも一歩一歩の歩幅ストライドをより大きく。さらに前を駆けるコニーを意識して回転数ピッチをあげる。――――――しかし、惜しくもボールにたどり着いたコニーはボールに触れた。

 運がいいのか悪いのか、ボールは転がった。コニーの興奮は尚も止まず、その転がったボールを見失いながらくるくると回転した。

 追いついた陸は、コニーの隙をついた。コニーの体に隠れたボールを掴むと声を上げた。


「よっしゃー‼」

「ワン。ワンッ!」


 ボールを掲げた少年の顔は誇った顔で福の方に顔を向けたが、一方の福はスケッチブックをマキに手渡して、一緒になって作品を覗いているところだった。


「なんだよっ」


 足元で少年の掲げるボールを恨めしそうに、眺めるコニーは、悔しいとは微塵も感じず、次の一投を待ちわび舌を出したまま息切れしている。

 陸はそんな水の泡のように消されてしまったた誇らしさを捨て、反対側にいる雪に手を振った。そして陸の姿に待ちきれなくなったコニーは、せがむように吠え、陸は一言謝ると、今度は雪の元に向かってボールを投じた。コニーはさっきと同じように物凄いスピードで駆けた。

 一方のマキにスケッチブックを渡した福は、じっと、マキの口が開くのを待っている。マキは福に対しては真剣そのものな表情で彼の描いた絵を見つめる。一度だけ福はマキに言ったことがあるのだ。子供だからって甘やかせないで下さいと。それからというもの、マキは福の絵を見るときは正直に話すようにしている。


「福君。間違いなく、完璧にとらえていると思うわ」

「本当ですか?」

「えぇ」


 そんな答えを出された福だったが、当然のように喜ばない。そしてそのまま黙ってしまった。

 マキはそんな福の頭を優しくなでた。


「頑張ったのね」


 マキのその何気ない言葉に少年は不意を突かれたかのようなまん丸い目をし、安堵したようにスッとした涙を流した。それはあくまでも自然とした涙であり、本人も驚き、他の二人にばれないようにすぐに着ていた服でそれを拭った。


「あの。僕は次にどうすればいいのですか?」

「そうだね……」


 マキはさっき淹れたぬるくなったミルクティーを一口飲んでカップを置いた。


「好きな風景を描けばいいんじゃないかな?」

「それで、僕は描きたいものを描けるようになるのですか? マキさんのように描くことが出来るのですか?」


 少年は必至な、すがるような声で尋ねた。広い庭ではコニーが二人の間を行ったり来たりを繰り返し、二人の声と、コニーの声がBGMのように広がっている。

 

「どうかしらね。私にもそれは分からないわ。芸術は完成させてこそ評価できるもの。だから、まずは書いてみなくちゃ」


 マキは自分自身でも理解しづらいような言葉を申し訳なさそうに言った。

 少年はまた下を向いて、羨ましそうに雪に目を向けた。


「僕は雪ちゃんの絵が羨ましいです」

「あら、どうして?」

「僕にはあんな絵を描けないんです。その見たままの絵しか」

「そうね。私も、雪ちゃんの絵は一目置いているし、真似できないと思ってるわ。けれどね、雪ちゃんも福君の絵に憧れを抱いているのよ」

「そんなの皮肉にしか聞こえません」


 少年はボーっとして無邪気にコニーとはしゃいでいる雪が、このまま絵を描けなければいいのにとひっそりと思ってしまった。そして、まだ声変わりもしていない、可愛くてどぎつい言葉が飛んできた。


「おい」


 いつの間にかむすっとした表情のフードを被った陸が目の前まで歩いてきた。


「やぁ。どうしたの?」

「なに、雪ちゃんの事ずっと見てるんだよ」


 どうやら、いつものように陸の勘違いが始まっていた。福もやれやれと言った様子で軽くあしらう。


「そんなこともないよ。コニーのことを見てたのさ」

「嘘つけ。コニーがいないときでも雪ちゃんと仲良くしやがって」

「それは友達だからね」

「何だよ。他に友達はいないのかよ」

「……」


 福はそれに関しては何も言い返せなかった。唯一、自分のことを友達になろうと言ってくれたのは、いつも白色のワンピースを着た少女のみだからだ。それに、もう一人いるとしても、目の前にいる陸だ。けれど、友達である確証はない。確認して本人に違うと言われてしまえば、それほど悲しいことはないのだ。


「何だよ、何とか言えよ」

「うん。いない。リス君は雪ちゃんのことが好きなのかい?」

「そ、そんなわけないだろ……」


 意想外を突かれたかのように口籠り、わずかに赤らめた頬を隠すようにフードを深く被るとその場を逃げるように離れた。

 何をそんなに恥じているのかわからない福は、とりあえずこの悪い雰囲気から解かれたことで安堵した。

 そしてさっきまで隣にいたマキはなんだか嬉しそうに微笑みながら、家の中に入り、またヤカンに火をかけた。

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