12 雨の降る町
何日か同じような一日を繰り返した。
そしてある日のお昼の後、一週間ぶりの雨がきちんと町に流れた。雨の日が好きな少女で雨が降るたびにお気に入りの黄色い傘を持ち出す。最近ではマキからもらった透明のビニール傘があるから交互に使っている。
空から落ちてきた雨粒がでたらめに屋根に当たり、コツンコツンだったりビチャビチャという音を延々と繰り返す。自然と耳に流れて来る音は当たり前の音で、今まで散々に聴いたはずだ。けれど雪がそれを意識したのは初めてかもしれない。いつもは傘の
ポツポツポツ――――――この音が一番好きだけれど、耳をすませば知らなかった音が鮮明に見えてくる。何だかワクワクする。
雪は窓際に椅子を移動させるとそこに座った。窓ガラスにぶつかった雨粒は重力に従い、サーっと滴れる。どんな音かというとこうだ。パンパンパン。薄い安いガラス窓。案外言葉にするのは難しいけれど、そんな音。
しばらく耳を澄まして満足したら、仕事部屋で作業をしている大吾郎のためにリーフティーを淹れた。リーフティーの茶葉は安価なものではなく、マキが雪に持たせたものだ。大吾郎は贅沢はしないので、特別買う事はないが、これを飲む時の大吾郎の顔は実に満足そうであり、その顔を見れるのが雪も嬉しい。
扉を開けるとふわりと絵の具の匂いが広がる。ふわりというが、それはこの町の人間にとっての表現で、町の人間でなければ驚くほど強烈な臭い。しかも今日は雨だからなおさらだ。普段は常に換気を意識しているが、一週間に一度は雨が降るため、こうやって部屋に染み付いた絵の具の臭いが部屋に籠ってしまう。
部屋の奥を覗くと、チャペルチェアに腰掛けて、普段は画題である果物だったり人形だったりが置かれた丸い小さめのテーブルに珍しくノートを置いて、ペンを使って絵を描いていた。大吾郎が得意とするのは水彩画であるが、様々な画材を使いこなせる。けれど、鉛筆、色鉛筆、油絵、これ以外の画題を選ぶことは滅多にない。
「おじいちゃん、何かいているの?」
大吾郎は一瞬ビクリとして雪の方を向いた。
「あぁ……」
雪がテーブルの上にカップを置くと、お礼を言って頭を掻いた。
そこに描かれていたのは男性の悲劇がにじみ出るような絵。
「誰の絵なの?」
大吾郎は普段は見せないような困ったような表情をした。
そしていつもの間……というよりは、躊躇いの間というべきだろうか。大吾郎は口を開いた。
「自分の絵だよ」
よく目れば、確かにヨレヨレの服を着ていて、少し背が丸まっている。
「どうしてこんなに悲しい絵なの?」
大吾郎は雪の入れたリーフティーを一口飲むと微笑んだ。
「心の絵だよ」
「おじいちゃんは今悲しいの?」
雪の探究心は留まらない。けれど今日は特別。こんなひどく悲しい絵の人物が今の大吾郎の心の中だというのならば、何としてでも解決してあげないといけない。
「どうだろう。けれど、それは良いことだ」
「どうして?」
大吾郎はいつもの独特の間を開いた。
「次には良いことが待っているからだよ」
なんだか不思議な感覚だった。大吾郎の心の顔は悲劇的で孤立したような寂しいそうな顔。けれど目の前の大吾郎は優しさのある顔。少女には理解できなかった。
大吾郎はその雪の問いに、大人になると強くなるんだよ、と答えた。大人とは不思議だ。
雪はその後部屋を出ると、自分の分のリーフティーをカップに入れた。少女はハーブティーの良さを大吾郎とは違い知らない。あの独特の風味はどちらかと言えば苦手だけれど、最初の一口はしっかりとその味を確かめる。少女は大人だからだ。
リーフティーを一口飲んだ後、少女は蜂蜜瓶を取り出した。瓶はいつも蜂蜜が固まってしまっているのか硬く閉じている。そんな瓶に少女は大吾郎を真似て銀色のスプーンでカッカッカッと何度か叩く。本当はそんなことをしなくても、思いっきり力を込めて回せば開くのだが、大人の大吾郎が自然とする行動を何でも真似したくなるのだ。
少女はスプーンで
ハーブティーが雪でも美味しく飲める味になると、雪はまた少しの間、外の雨の音に耳を澄ませた。大自然の大合唱。雪も、その音に合わせるように、童謡を歌った。
「あめあめ ふれふれ かあさんがーじゃのめで おむかい うれしいなー
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン――――」
ハーブティーをすべて飲み終わった雪は水色のポンチョを取り出して、白色のワンピースの上から被ると、透明の傘を持ち出して外に飛び出した。
家の外に出るとまた、音が変わって聞こえる。家の中で籠って聞こえていた音は、解き放たれたかのように無限に広がっている。
雪は傘をバッと開くとその空に透明なビニール傘を掲げた。空から落ちてきた雨粒は待っていましたと言わんばかりに雪に触れた。傘が奏でる演奏を聴き終わった後は、少女は傘を閉じてそっと玄関に置いた。
そして自らその雨の中に体を
その後も少女は普段とは違った雨の日遊びを思いついては即行動した。たとえば、他の音を楽しむために家の中からヤカンだったり鍋やフライパン、バケツに風呂桶を持ち出した。
ヤカンは蓋を開けたまんまにして雨水を貯めて、フライパンや鍋は逆さまに地面に置いて、カンカンとなる音を楽しんだ。バケツと風呂桶は、ヤカンのための水にした。
けれど、途中でバケツの水を一気に流したくなって、バケツの水は雨水を貯め続けた。
雨の中では大合唱。少女の歌声だったりに合わせて、雨音がバックコーラスとなる。そしてアクセントをつけるように、フライパンや鍋がメゾ・スタッカートを小気味良く奏でる。
「か~え~る~の~う~た~が~き~こ~え~て~く~る~よ~」
「グワッ」
そんな風に歌っていると、本物のカエルもどこからともなく現れて、雪の歌に合わせるように鳴いた。
そんな雪はそのカエルを必死になって探したけれど、結局見つからなくて、また歌い出した。
「か~え~る~の~う~た~が――――」
「雪」
ガチャリと開いた扉には大吾郎が立っていた。
「おじいちゃん!」
雪は笑顔で大吾郎に向いたが、その顔は酷く怒ったような顔。一瞬だけ
大吾郎は黒い傘をさして、少女に近づいた。そしてポンッと雪の頭に手をのせて、少女の目の高さまで腰を落とした。
「フライパンに、鍋に、ヤカン――――。遊ぶものじゃないから、これはダメなことだよ」
「……ごめんなさい……。音が聞きたかったの」
「そうか。悪いことではない。やる前に言ってくれればね」
「次からはちゃんと言うわ!」
「よし。じゃあ、少しだけ、おじいちゃんにもお歌を聴かせておくれ」
「もちろん!」
それから、雪はさっきの歌を楽しそうに歌った。大吾郎にも一緒に歌おうと誘ったけれど、大吾郎は歌が苦手のようで、渋々手拍子をしてくれた。
けれど、雪はそれが嬉しかった。こうやって大吾郎と遊ぶことは滅多にないから。自分の親が大吾郎で良かったと心の底から思ったのだった。
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