16 恋人のいる町

 十歳の少女が隣町のホームレスであるマウスと出会ってから気づけば一カ月は経っていた。一カ月という時間が経っても、町の季節は変わらない。この町には不思議なことに四季がない。年中気温が一定であり、暑くもなければ寒くもない。そして規則的に週に一度雨が降る。

 相変わらず、雪はスランプから脱していない。そんな中でも、雪の心境に変化があった。


「マウスには恋人はいないの?」


 いつものように、マウスがパン屋でパン耳の入った袋をもらった後、いつもの少し広場のようになった公園で会話をする。

 そして少女の突然な問に、大人のマウスはきょとんとした顔になった。まさか十歳の子供に恋人がいるのかと訊かれれば無理はないのかもしれないが、それにしても面白いくらいに情けない顔だ。


「お嬢ちゃんはなかなかお構い無しだね」

「好きな人がいるのかを訊くのは悪いことなの?」


 少女の純粋な質問に、上手く返せないマウスは口ごもってしまうが、何とか考えた末に仕方なしに答えた。


「僕は人を好きになったことはないかな」

「可哀想だわ」

「まったく……」


 何せ、少女はまだこども。無頓着というよりは、純粋でいて正直に話しているのだが、マウスは呆れ返る。


「ユズ姉のことは好きじゃないの? ユズ姉はきっとマウスのことが好きよ」

「どうしてだい? まぁ仮に僕のことを好きだと知ってても、それを僕に喋っちゃいけないよ」

「どうして?」

「お嬢ちゃんが好きな人がいて、その気持ちを伝える前に、僕がお嬢ちゃんの気持ちをその男の子に喋っちゃったらどう思う?」

「やだ!」


 少女は直ぐに反応した。反応しながら顔をピンクに染めた。照れているのだ。けれど少女は直ぐに顔を戻し謝った。


「雪、ユズ姉に酷いことしちゃったよね。お願い、ユズ姉には秘密にしてて!」


 マウスは微笑んで、大丈夫、と言った。


「残念ながら、ユズは僕の事を好きではないよ。きっと心配してるんだよ」

「どうして心配しているの?」


 マウスは、うーん、と少し考えてニヤリと答えた。


「好きだから」


 少女はよくわからなかった。好きじゃないのに、心配してて、その理由は好きだから。困ったような顔をしているとマウスは、心配ないよ、と言った。


「ユズは、僕のことを恋人として好きな訳じゃないってこと。それだけは言えるから」

「そっか」

「お嬢ちゃんは好きな人はいるのかい?」


 雪は元気よく答えた。


「うん! 雪はマウスのことが好き!」


 男は少し困ったような顔を見せた。


「そっか」

「本気で言ってるのよ!」

「はいはい、だけど、まだお嬢ちゃんはまだ子供だからね」

「そんなことないわ。だって雪はよく考えることができるもの。それにこうやって一人で隣町にだって来られるわ」


 男の膝の上には子猫がのっていて、大人しくなでられている。そしてマウスは少し考えながら話した。


「人を好きになるのはどういう事かわかるかい?」


 少女はマウスが何を聴きたいのか今一つ理解できなかったが、思ったことを素直に答えた。


「きっと、胸がポカポカするの! 雪はマウスと一緒にいるといつも嬉しい気持ちになる」

「そうだね。けど、大人になると、それが苦しくなったりする。なぜだかわかるかい?」

「苦しくなるの?」

「あぁ。多くの人は苦しくなる。大人になると、なかなか好きな気持ちを伝えられなくなるし、時には好きだったのにそうじゃなくなる」

「そんなのおかしな話。雪はずっとマウスのことが好きよ」

「お嬢ちゃんにもいつかわかるようになるよ」


 少女はそういわれ、少しだけムスッとした。大吾郎に言われるそれとマウスに言われるこれが同じ言葉であっても、それは少しだけ違ってマウスの「いつかわかるようになる」という言葉は、子供扱いされているようで嫌な気持ちになるのだ。けれど、少女はそれ以上になにも言わずにベンチの上で脚をぷらぷらとさせた。


 少女はマウスに言われた通り、パン屋の柚子ともあれから会うようにしている。パン屋を逃げるように飛び出してから、はじめて訪れた時は少しだけ不安な気持ちで顔を覗かせたのだが、いつもと変わらず優しく招かれた。それからは、頻繁にパン屋に顔を出しては柚子や店主の男と会話を楽しんだ。実を言えば、そのパン屋の美味しいパンと瓶に入ったミルクを頂くのを楽しみにしている。


 カランコロン――――


「あら雪ちゃんいらっしゃい」

「ユズ姉! こんにちは!」


 雪は既にこの店の一番の常連客かもしれない。お金は一銭も払ったことはないが、多くの客が訪れることがないパン屋であるため、店主は少女が来てくれるのが心底嬉しいのである。


「パン屋のおじさんもこんにちは!」


 部屋の後ろの方から出てきた男は、嬉しそうにして、今日も食べてって、と雪を歓迎した。まるで自分の孫でも甘やかすかのようだ。

 雪が訪れるのは日が暮れる少し前。日が暮れてしまえば店が閉まるため、お客さんも少なければ、柚子の仕事も早く終わるのだ。そしていつも店のテーブルでいろいろな話をする。時には三人で。

 折悪しく店主の男は作業があるため、今日は二人で椅子に座った。

 そして少女は、今日の失敗を踏まえて柚子に質問した。


「ユズ姉には恋人はいるの?」


 柚子も同じくしてキョトンと反応したが、マウスと違うのは少しだけ恥じるように頬を赤らめたことだ。


「さぁ、どうかしらね。雪ちゃんは好きな子がいるの?」

「うん!」


 本当は名前を言いたかったけれど、柚子にはマウスと会っているのは秘密にしている。だから、名前までは言わなかった。


「素敵な人なの。とっても」

「そうなのね。実は私にも好きな人はいるわ」


 柚子は照れながらしゃべった。どんな人なのか尋ねると、彼女は恥ずかしそうに話した。そしてその人物はきっとマウスなのだろうと少女は思った。少女はそれはとても素敵なことだと思うのと同時に、マウスはやっぱり魅力のある人なのだと思い、とてもいい気持になった。

 店を出る際、店主の男は売れ残りのパンをいくつか袋に入れ、その一つを雪にも渡した。勿論、雪は断る理由はなく、店主の男に言われるままパンの入った袋を受け取った。

 けれど、その際、少女は一つだけ疑問に思う事があった。柚子も店主から袋を受け取っていたが、別にパンを買った。最初は貰った袋の中に、好きなパンが入っていなかったのだと思ったが、どうやらそうではなく別の理由があるようで、すかさず少女は訊いた。すると彼女は、あぁ、と、さもどうしようもない理由があるかのように話した。


「売り物はあの人受け取らないの。けど、私が買ってプレゼントだと言えば、渋々受け取るのよね」

「マウスの事?」

「あ……そう。彼、本当にパン耳しか口にしないのよ。さすがに心配だもの」


 少女は、彼女がマウスのことを心配しているのを心から感じられた。同時に、マウスのその偏屈でいてまっすぐなところがマウスらしいなと思った。

 それから少女は柚子とお別れし、家に帰り大吾郎ともらったパンを口にしながら今日の話をした。大吾郎はそのパンを一口サイズにちぎりながら食べた。雪は大吾郎に作ってもらったココアにパンの先っちょを浸して食べた。そのままでも美味しいが、やっぱり少女はこれが好きだ。


「おじいちゃんにも恋人はいたの?」


 雪の質問は何の悪意もないものだった。ただ単純でいて簡単に。大吾郎はマウスや柚子のようにキョトンとした顔にはならなかったものの、その一瞬、少女と目を合わせると、また一口サイズにパンをちぎり口にすると、ゆっくりとした口調で話した。


「――――恋人はいたよ」

「死んじゃったの?」

「いいや。今も生きているよ」


 今度は口を噤むようにするが、振り絞る様にしてまた話をつづけた。


「雪にも、いつか話さないといけない」


 大吾郎はそれ以上なにも、人形のようにじっとなった。ただ、今も手に持ったパンを時間をかけてちぎっては口に運んだ。

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