17 オレンジに包まれる町

 町ではまた雨が降り、壁には絵が描かれ、また雨が降り、壁の絵は消えるを繰り返した。そんななんでもない一日が騒がしく音をたてた。


「いい感じじゃない」

「そうかな?」


 あれから随分と時間が経ち、雪のスランプも克服に近づいていた。克服に近づいたといえど、そのスケッチブックに描かれた絵は沢山の色を大胆でいて美しく、雪の頭の中の世界を表現していた。何か足りないのは、少女の自信だろう。

 マキの家の二階部分の一室は、いわば大吾郎の仕事部屋のようになっており、油絵具特有の臭いが染み付いているが、部屋にある窓はすべて開けられて、海の潮風が悠々と吹き付けて気持ちがいい。マキの仕事部屋だが、今日は雪を歓迎するかのようにして部屋は随分と明るい。

 部屋の奥の日光が当たらない場所には大きなキャンバスが置かれている。イーゼルに立てかけられたキャンバスは大きくてどっしりと構え、圧倒的な雰囲気を出した。キャンバスは下塗りまでで止まっている。

 少女はキャンバスとは反対側の窓もとにある椅子に膝を立てて外を見た。その景色は見事なもので水平線がうかがえた。どこまでも伸びる海に空が交わる事はなく、一本の線がその境界線として間に入る。空には燦々と輝きを放つ太陽。夕方になれば、空から海へ沈んでいく。その景色をこの窓からでも恐らく見ることが出来るだろう。

 少女が久しく触れもしなかった絵に取り組んだのは、その気持ちが溢れてしまったからだ。大吾郎から「絵を描くのをやめなさい」と言われてから彼女はずっと絵を描かなかった。それは描けなかったのもあるが描いていても楽しくないからだが、いざ描かなくなると描きたい気持ちが段々と溢れ、少女の気持ちがまるで天秤にかけられたように傾いたのが分かった。そうして、我慢の限界となった今日、こうしてマキの家で絵を描いたのだ。

 

「描いてみてどうだった?」

「すっごく楽しいわ! それも前よりもずっと」

「きっと、もう大丈夫ね」


 少女はなんで自分が悩んでいたのかも忘れてしまうほどだったが、やはりまだ、雪としては、昔のような自信がない。と、いうよりも、昔の雪には自信も何も自由に描きたいものを表現してきたまでだ。そんな少女が、真剣に、「描く」という事を理屈として考えることで、描くことが何なのかが分からなくなったのだ。それは芸術として表現を追求するうえで誰しもが悩むことだろう。


「考えて描くよりも、楽しく描けば、なんだかうまく描けるの」

「大切なことね。そのことをずっと忘れなければ、きっと立派な画家になれるわよ」

「うん!」


 雪は元気よく答えた。絵に集中していた二人は、何時間も遅れての昼食を取った。マキの手作り料理は美味しいのは勿論なのだが、成長盛りであり普段から沢山のご飯を食べない少女にとっては大変喜ばしい。少女は不器用にフォークとスプーンでトマトパスタにありついた。マキは雪の真っ白なワンピースが汚れないようにエプロンを掛けておいたが、どうやら正解のようだ。パスタから弾かれたトマトソースがいくつもエプロンに飛び散っていた。

 

「美味しいかい?」

「とっても!」

「それは良かったわ。おかわりもあるからね」


 少女はおかわりするのが大好きだ。それはマキの家でしかできないが、それでも少女はお腹いっぱいに、動けなくなるくらいに食べる。マキも、少女がおかわりするのが好きなのを知っているので、あえて少し少なめにお皿に盛ることで沢山おかわりできるようにする。なので少女はマキの家でご飯を食べるときはいつも二、三回ほどおかわりをする。案の定、今日も三回目のおかわりを終えるころにはリスのように頬を膨らませていた。


「雪ちゃんも、リスみたいになってるわね」

「――――リスはもう陸君の名前だから雪には使えないわ」

「ウフフ、そうよね」


 少女はコップに入った水で口の中を綺麗にすると、マキと共にお皿を洗った。雪なりのお礼を込めてのお手伝いだ。

 洗い物が終わるとコニーと共にソファーに座った。どうやら、ごはんを食べたら眠くなるのは犬だけではないようでいつの間にか一緒になって眠ってしまった。

 雪は夢を見ていた。それは幸せな夢。陸や福、マキや大吾郎、マウスや柚子。それとコニーとで集まって、みんな笑顔なのだ。雪にはたくさんの大好きな人がいる。そのたくさんの人たちが夢の中にも出て来るのは幸せだ。

 そしてふっとして目を覚ました時。雪は夢のようにみんなで集まって、夢の中と同じようにみんなでお話がしたい、と思った瞬間にその全てを忘れてしまうのを感じた。


「雪ちゃん、起きたかい」

「うーん。今ね、とっても素敵な夢を見ていたのだけれど。何だったか忘れちゃった」

「そうかい。それはよかったわ。けれど残念ね」

「うん。なんだかみんな笑顔だったの。それだけしか覚えてない」

「それだけできっと十分よ」

「うん」


 その後、雪とマキとコニーとで、砂浜に向かった。砂浜までは歩いてすぐだ。

 夕方の海はちょっとだけ肌寒い。けれど、この景色を見ればそんな寒さも忘れられるほどに美しい。一日の終わりを知らせる時間帯。雪は夜空が一番好きだが、この珍しい空模様も好きだと思った。


「これはね、マジックアワーっていうのよ」

「マジックアワー?」

「そう。マジックアワー。太陽が沈んだ少しの時間帯のこと。たった十分くらいしかないわ」

「そんなに短いんだ」

「その十分で、太陽はみんなに教えるの。世界はこんなに綺麗だよって。いつも同じだと忘れちゃうから」

「それも太陽の大事なお仕事なのね!」

「そう。お仕事よ」


 雪は大吾郎に質問するのと同じように、マキにも訊いた。


「太陽はなんで赤いの?」


 するとマキは、ウフフフ、と笑いながら一緒になって考えようと言った。


「太陽は温かいから!」

「そうね。温かい。なんで温かいのかわかる?」

「うーん――――」

「――――太陽はね。ヒトと同じなの」

「ヒト?」

「そう。雪ちゃんのように、生きているの。太陽は生きてるから温かいの。雪ちゃんも、生きてるからそばにいると温かい」


 そういいながら、マキは少女の手をぎゅっと握った。雪は嬉しくなったし、マキも太陽だと思った。温かくて、優しくて、いつみても笑顔。素敵な大人だった。

 家に帰るころには辺りは真っ暗で、スケッチブックを胸に抱え込むようにして小走りで帰った。それは早く大吾郎に褒めてもらいたかったからだ。きっと大吾郎は喜んでくれる。褒められる時のことを考えれば、ウキウキする気持ちが跳ね上がって、家に着くころには息切れをしていた。


「ただいま! おじいちゃん」

「おかえり。どうしたんだい?」

「絵が描けたの」

「そうかい。みせてくれるかい」

「もちろん!」


 雪はスケッチブックのぺーじを捲ると、両手で大吾郎に渡した。

 

「夜空かい?」

「うん。一番好き」

「おじいちゃんも、夜空が一番好きだよ」


 雪の絵は濃淡を活かした夜空で、その空で眩しく光を放つ星は生きているかのように動きがある。そして青や赤やオレンジの様々な色が散りばめられ、見る者を虜にしてしまう様に見れば見るほどくぎ付けになる。


「上手だよ」


 大吾郎はそういうと、雪と一緒に家の外に出た。空を見上げよう、と言い出して、雪は喜んでそれに付き合った。


「雪にはあの絵のようにこの空が見えるのかい?」

「うん。星はね、たくさんの色があるの。ずっと絵にしたかった。けど、とてもじゃないけど夜空を見たままを描くのは出来ないの。だからあれは、雪が見てきた今までの星を思い出して描いたの」

「それも大切だよ。絵の表現は自由だ。描くものが命を宿らせる」


 雪はその難しい言葉を理解することはできなかったけれど、なんだかそれでもいいような気がして、しばらくの間、飽きることもなく光を追った。

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