18 変化する心といつもの町

 あれから町では数ヶ月が経った。相変わらず雪は今日も元気に町を歩き回る。絵の方は好調で、雪が描きたい風景を好きなように描いている。そしてそれは陸も福も。

 今では少女は油絵も扱えるようになった。色を重ねたり、重圧のある表現ができる油絵は雪にはとても相性がいい。毎日のように先生(大吾郎やマキ)に、指導を仰いで自らの浮かんだ絵を今日もペインティングナイフでキャンバスに絵具を置いていく。少女の絵はとても時間がかかる。何層もの絵具が重なり合い、時に混ざり合い、彼女の絵は完成に向う。主に描くのは風景画だ。


「雪ちゃんは随分と大胆な絵を描くわね。もう、何を描いているかも分からないわ」とマキは言った。

「みんなと同じ絵はつまらないもの」


 もちろんマキは少女を否定している訳ではない。それほど、雪の絵は一見乱雑に見られ、基本的に沢山の色を使い分ける。だがそれは見るものを魅了する。マキもその一人だ。神に愛された画家だったり炎の画家、光の画家や夜の画家などと様々称されているように、少女を例えるならば「色彩の画家」であろう。少女が風景を描く中でも最も多いのは空。必ずといっていいほど光が描かれた。


「今日はこれで終わるわ、キリがいいしこの後は予定もあるから」

「そう。じゃあこれは乾燥させておくわね」


 少女はマキに絵を任せると、道具の手入れだけして、さっと身支度をしてマキの家を出た。そして少女はマウスのいる公園の広場に向かった。マキの家からもそう遠くはない。十分、二十分ほど歩けば着く。そのころには街の風景も一変し、いたって普通の街になる。公園の周りにはツツジの花が咲いていた。白やピンク、中にはその二つが混ざり合ったような花まで見つけることができた。そして彼はいつものようにベンチに腰かけて本を読んでいた。少女は挨拶をすると、マウスも丁寧に挨拶をした。


「何の本を読んでいるの?」

「これかい。これは心理学の本だよ」

「マウスは勉強熱心なのね。それってどんな本なの?」

「人の探究心は無限大なんだ。心理学にも様々だけれど、僕が今学んでいるのは認知心理だったり行動心理だ。心理学とは言えど、僕はこれは哲学のくくりだと思っているんだ」


 そうマウスは説明するが、少女にとっては理解はできなければ、興味もない。そのしるしに少しだけ不機嫌そうな顔をする。


「とにかく、これは人が生きるうえで必要な知識なんだよ」

「それより、雪はもっと面白い話を聞きたいわ」


 マウスはやれやれといった風に表情を緩め、少女にもわかるような話をした。例えば自分自身の幼少期の話だったり、どんな遊びをしたかやどんなものを食べたか。少女にとってはそんなどうでもいいような話を聞けるだけで、胸がどきどきした。まるで自分と同じ年の男の子とかけっこでもするように。その男の子は雪に合わせるようにして、でも絶対に抜かさないようにして、少女をハラハラさせるのだ。


「それで僕は言ったんだ。こんなくだらない勉強は嫌だって。そしたら先生はなんて言ったと思う? 『とにかく、今だけ覚えてればいい』っていったんだ。ほんと、あれには笑ったよ」

「どうして笑ったの?」

「それは、そうだろう。無駄だとわかっているのに、一生懸命にその勉強を必死になって覚えさせるんだから。挙句の果てには『覚えられないんだろ?』って僕を小ばかに扱ったさ。僕は頭にきてそのテストで学年一位の点を取ってやったよ。もちろんほかの教科もなかなかの点を取った」

「その先生はきっと大切なことを教えてもらわなかったのね。考えることの大切さ。雪のおじいちゃんはきっと立派な先生だわ」

「そうだね。お嬢ちゃんのおじいちゃんはそこら辺の大人とは違うと思うよ。お嬢ちゃんにとって必要なことを教えている」

「そうでしょ! 雪の自慢のおじいちゃんなの!」


 マウスの昔話はとても面白かった。今のマウスも好きだが、子供のころのマウスに出会っていれば、きっとお友達になれただろうと少女は思った。その後もマウスは世の中の不満をいきいきと語った。そんなマウスはどんな時よりも楽しそうだったし、その顔を見れるのが雪は嬉しくて、マウスに会うたびに昔話をせがんだ。


「お嬢ちゃんは正直だ。とてもそれはいいことだ」

「当たり前の事よ。それもおじいちゃんが教えてくれたもの。嘘はダメだって。一つ嘘つくとまた嘘をつかなくちゃいけなくなるって」

「そうだね。嘘は良くない。僕は嘘が嫌いだ。だけど大人は嘘つきばかり、そんな世の中が僕は嫌いなんだ。嘘で満ちた中で生きるくらいなら、僕は一人でいい」

「安心して。雪がマウスといるから」


 少女のマウスに対する好意は変わらずに、寧ろ大きくなっていた。それは恋人として好きなのかといえばそうではないが、極めてそれに近いだろう。けれど今日のマウスはその言葉が純粋に嬉しいようで、優しく口元だけ緩めると気を紛らすように本を開いた。


 家に帰ると少女はいつものように大吾郎に一日の素敵な出来事を事細かく、まるで一日を繰り返すように説明した。大吾郎はいつものようにうんうん、と頷くと一口スープを飲んだ。そして思い出したように大吾郎は雪に訊いた。


「マウスという人はいつ、おじいちゃんのところに来てくれるのかい?」

「雪にはわからないわ。きっと彼、一人が好きな人だから恥ずかしがってるの」

「おじいちゃんは雪のことが心配だよ。一度でいいから彼とお話がしたいんだ」

「それは構わないけど、それは雪の決められることじゃないの。マウスが勇気を出してくれないと」

「そうか……。マウスという人はいい人なんだよね?」と大吾郎は心配した顔で訊いた。


 雪は当然だという様に明るく答えた。


「もちろんよ」

「それならいいんだ。彼にはいつでもいいから会いたいと伝えてほしい。彼が勇気を持った時でいい」


 大吾郎はそういうと、残りのスープを皿に口を付けてかきこんで全て飲み干すと、ふぅ、と息を漏らした。

 その晩、雪はまた幸せな夢をみた。それもこの頃は決まった夢をみる。光の中には雪の親しくする人々が待っている。手を伸ばせばもう少しで届きそうになるのだがなかなか追いつかなくて、けどとても幸せな気持ちがふわふわと漂う。いつもならここまで。けれど今日は違った。ほんの少しその顔が見えた時、その影はすっかり消えた。

 そしてそれは自分の家族――――それは母親の顔であったり、父親の顔であったり――――であることが分かった。そしてなぜだか真っ白なワンピースの自分の姿もそこにある。なんだか不思議な夢だった。雪は両親の顔はもちろん覚えてはいないがそうなのだとわかった。きっと産まれたばかりのヒヨコのように、一番最初に見た顔を覚えているのだろうと眠りの中で思った。本当に幸せな夢だった。

 目が覚めるといつもの朝だった。色褪せた渋みかかった翠のカーテンの隙間からの薄明りが、あの夢のようにして伸びていて、手を伸ばすと閉まっていたはずの窓から風が吹き、カーテンは大きくなびいた。


「おはよう、雪。どうした?」


 寝室である仕事部屋のドアが開き、ヨレヨレの部屋着を着た大吾郎が入ってきたのに気が付いたのは、大吾郎が少女の肩に触れてからだった。少女はひとたび大吾郎を見てまた窓を向いた。そして、ただぼーっとして呟くように口を開いた。


「夢の中でお父さんと、お母さんに会ったの。そこに雪もいたの――――」


 大吾郎は驚いてしばらく動けなくなった。そして大吾郎は立ち上がってぼそぼそといった。


「雪。そろそろ朝ごはんだ」

「――――うん」


 しばらく大吾郎が台所で朝ごはんの準備をしていると、ケロッとした顔で出てきたと思ったら、おじいちゃんおはよう、と元気よく挨拶をした。そしていつものように食パンをトースターにセットして、顔を洗い歯を磨いた。大吾郎がさっきのが夢だったと勘違いするほどに、いつもの朝だった。

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