15 病気が広がる町
今日も雪はマウスの元にいた。あれからマウスの元を訪れる時は、彼がパン屋に行った後にしている。それは雪があれから柚子に会っていないからだ。最後に彼女に会ったのは、あの雨の日だ。少女は結局あの日、パン屋での出来事はマウスに話さなかった。
「こんにちはマウス」
「やぁお嬢ちゃん」
外の天気は相変わらず良い。雲はほとんど見ることができないほどの快晴。こんな日は珍しい。
マウスはいつものように公園のベンチに腰かけて、遠くの遊具で遊ぶ子供たちを眺めるようにして食事をしていた。少女が挨拶をすると、いつもの調子で挨拶を返すが、彼はなかなか少女と目を合わせない。まるでそれは大吾郎のよう。
少女がそのことについて大吾郎に尋ねた時、常に周りの状況を把握するためだったり、よく考えるには、見えるものを見てはいけないのだと説明した。だから、恐らくはマウスもそのどちらかの理由で、目を合わせようとしないのだろうと少女は思っている。
「パン耳は美味しい?」
「あぁ、僕にはご馳走さ」
雪がパン屋を訪れないときの食事はパン耳だけのようで、他の甘いパンだったりは勿論、ミルク瓶はそこになかった。
そして、雪は心配して訊いたのだが、マウスはいつもの笑顔で答えてくれて、少しだけ安心した。もしも、自分のせいで他の美味しいパンだったりをもらえてないと言われてしまえば、見せられる顔がない。
そして、少女はマウスの隣にちょこんと座り、足をぶらぶらとさせる。
「ユズ、お嬢ちゃんの事心配してたよ」
突然、思い出したようにしゃべりだしたマウスに少女は動揺を表すかのようにギクりと体を強張らせた。当然、雪の頭の中は、柚子の顔が浮かぶ。
「さいきん一緒に来ないけど、お嬢ちゃんに会っていないかって」
「マウスはなんて言ったの?」
なんだか、悪いことを隠そうとする子供のように必死な様子で尋ねた。もしも会っていると喋っていれば、次に柚子に会うときにはきっと嫌な思いにさせてしまう。
だが、マウスはその答えには答えずに、話を進めてしまう。
「お嬢ちゃん、ユズに何か言われたでしょ?」
「何かって⁉」
マウスは鼻で笑うようにして、少女の顔を見た。
「ユズは僕とお嬢ちゃんが会う事を良いように思ってないからねー」
「どうして、雪はマウスと会っちゃいけないの?」
雪が彼女との会話を秘密にするも何も、誘導尋問のように会話を進められれば、勝手に自分から余計なことを話してしまう。それほど雪はまだ子供である。
そして、マウスと雪の質疑応答が淡々と流れる。
「僕はいわゆるホームレスだからね」
「ホームレスとは会っちゃいけないの?」
「ホームレスはいわゆる病気だと思われてるのさ」
「病気なの?」
「うーん。そうも言えるかも。けど、みんな同じ病気なわけじゃない。僕なんかは自分で病気になったようなもんさ」
「どうして病気になったの?」
「世の中を知りすぎて呆れちゃったのさ」
雪にはその意味は深くは理解できなかった。けれど、病気という事の意味がさらに不思議だった。マウスの姿は確かに汚れていて、服もボロボロ、顔もやせ細っている。だけど、彼の顔つきはいつも優しくて、他の人と何ら変わらない。
自分が病気になった時を思い浮かべると、それはそれは辛い思いをした。風邪を引けば体が熱くなって、頭痛がして、きっとこの世の終わりのように、酷い顔をしていただろう。
けれど、目の前のマウスは全く辛そうな顔をしていない。
「マウスは今辛いの?」
マウスは大人だ。もしかすると、強がっているのかもしれない。なんたって、病気であるのだと自覚しているのだから。きっと心配させないようにしているのかもしれない。
少女は心配そうに訊いた。するとマウスは優しく微笑んだ。
「きっと、僕は当たり前のように働いて、当たり前のように良い服を着て、当たり前のように美味しいご飯を食べて――――。きっとそれはもっと辛かったと思う。だから、今は幸せだよ」
「マウスが辛くないのならよかった」
マウスはお腹を満たしたようで、袋をしっかりと結び、なにか決心したように少女に言った。
「お嬢ちゃんが誰と会うかは好きにすればいい。だから僕は何も言わない。けど、周りの人の言うのもわかる。ユズにはお嬢ちゃんと会ってないって伝えとくから、パン屋には顔を出してやってほしい。その方が、ユズも安心するし喜ぶから」
柚子には悪いとは思ったが、それは少女にとってとても素敵なことであった。どんなに嫌なお別れの仕方をしていたとしても、彼女はとても自分に優しくしてくれた。その恩のような気持ちを拭う事はどうしても出来なくて、けれど、彼女の言う事を守ることはできなくて。
彼女に合わせる顔がなくて、悩んでいたところだったのだ。
それにしてもマウスは良い人だった。
「ユズ姉には秘密だよ! 約束ね!」
「あぁ。約束だ」
それからマウスとは最近の話をたくさんした。それは家での出来事であったり、他のお友達の話や、マキの家の犬「コニー」の話だったり。
マウスはそれらを聴きながら、時に質問をしたり、時に笑い、驚いたり、真剣に少女の話を聴いてあげた。
そうしていると、二人の前にあの子猫が現れた。
あの子猫とは先日、雪がパンを与えてしまった子猫だ。もしかするとあの日、パン耳をやってしまったから味を占めてしまったのではないか。そう思い、少しだけ罪悪感を持ってしまった。
そして少女はマウスの顔を見ると、マウスはじっと子猫を観察するような、何か考えているかのような眼差しでいた。
子猫は少女の脚に体を擦り付けて、甘えている。
「きっと雪がパンを与えてからよね……」
「そうかもしれないね。けれど、もう過ぎてしまったことだから仕方ないさ。それに、ただお嬢ちゃんに甘えているだけかもしれない」
少女はベンチからひょいっと降りて、子猫の背中を撫でた。
「猫ちゃんの名前はなんていうの?」
「にゃー」
「フフフ。お腹空いたの? あなたともお話が出来ればいいのにね」
そんな雪が子猫と会話する姿は、お互い理解し合えてなくとも、通じ合っている何かが感じられた。
そしてそれを見ていたマウスもベンチから立ち上がり、ベンチ後ろの草むらに膝をついて何やらゴソゴソと、何か落としたかのように手のひらで草むらをかき分けた。
「マウス? 何を探しているの?」
少女はマウスの不可解な行動に質問すると、マウスは尚もそれを探し続けて、とうとう見つけたという合図のようにその手に持ったそれを雪の方に突き出すように見せた。
「それって……バッタ?」
「そう。バッタ」
するとマウスはそのバッタを雪と真っ白な毛並みの子猫の前に置いてやった。
地面に置かれたバッタはぴょんぴょんと小さく飛んで逃げ出した。バッタに気が付いた子猫は、びくりと体を起こす。地面を飛んだバッタの姿に警戒するかのように態勢を低くした。そして次に飛んだバッタの姿に素早く反応し、前足で地面をえぐるようにして体を浮かせた。
器用にモフモフとした両前足で獲物を叩いた。それに驚いたバッタはまた何度か飛び跳ねたが、その凛とした猫の牙に捕まり、最後まで必死に体を揺らした。
「あ……」
少女は少し固まったようにその姿を見て、たまらずマウスの顔を見た。
「バッタさんが……」
「これは、生きるための自然なことなんだ」
マウスが言う事は分かるが、まだ十歳の少女には、こんな些細な出来事でも大きく心を痛めてしまった。
「人もおんなじだよ。明日があるかはわからないからね。だから、今日という日を全力で生きなければならないんだ。それをみんな忘れてる」
「この子猫も全力なんだね」
「そうだよ。それにしてもよかった。猫は生まれた時から狩猟本能が備わっているけれど、それを殺して、食べるのは教えられないとわからないんだ。この子は今後もきっと生きていけるよ」
当分はこの出来事が頭から離れそうにない少女だったが、目の前の子猫の未来があることが分かったのなら、少しだけ嬉しかった。それに、少女は、今日を精一杯に生きようと心に刻んだ。
そしてマウスは日の暮れてあたりが少し薄暗くなったとき、ふいに月の話をした。月には不思議な力があるのだと。そして、頭の中にその光景を浮かべて話した。海に敷かれる月明りを辿れば違う世界に行けるのだと。それは快晴の日の満月に限られる。彼はその日が訪れるのを心から待ち望んでいた。
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