14 先生のいる町

 今日も町は平和だ。雨が降った後の町は随分と清々しい風が吹き、柔らかい太陽の光が差し込む。

 ウォール街の大きな壁の絵は、ほとんどが消えてしまって、真っ白の壁に戻る。この壁には様々な人々の、喜びや悲しみ、楽しさや苦しみなどの思い出の詰まった壁だ。

 そして今日も一人の画家が、この壁に想いをぶつけてチョークを走らす。


「りくー。今日も雪ちゃんを描くのかい?」

「違うよ!」


 町の大人たちに茶化されながらも、今日も少年は壁のキャンバスに向かう。

 少年は雪が好きだ。けれど、まだ十歳の子供。自分の好意に素直になれない年頃なのだ。

 フードをしっかり被って誰にも気が付かれないようにひっそりと。

 少年はこの壁は、希望の壁なのだと教えられている。その希望というものが何なのかはわからない。けれど、この壁の前では素直な心でいるようにしている。

 お昼を過ぎると少年が想いを寄せる少女がこの道を通る可能性が高くなる。それが確かでないのは、何しろ少女は気分屋なのだ。次の日の予定は立てない。起きてから、思いついたことを、好きなことをする。

 けれど、少年は一つだけ思い当たる節があった。

 今日はマキの家に行くのかもしれない。

 あれから、雪がスランプから脱したとは聞いていないが、マキの家の壁が昨日の雨で綺麗になったのなら、町の画家なら誰もが気にかけるはずだとふんだ。

 そしてフードを被った少年は一通り描き終わった絵を後にする。まだまだ完成とは言えないが、その絵に悪戯など誰もしない。町の人々は絵に対する、画家に対する思いやりがある。絵は本人か、あるいは一週間に一度の雨によって流されるしか、選択はないのだ。


「あら、陸君いらっしゃい」

「こんにちは……あの……雪ちゃんは?」


 マキは少し驚いたような顔をしたが、すぐににっこり微笑んで言った。


「雪ちゃんは今日、来てないわ――――時間があれば、クッキーでも食べていかない?」

「――――うん!」


 少年は雪を探していたから一瞬迷う素振りを見せたが、特別、雪に用があるわけではない。それに、マキがクッキーを出してくれるというのなら、断る理由はなかった。

 マキの家にはそれぞれ(雪、陸、福)が一人で来ることも珍しくなかった。どちらかと言えば、一人で訪れる方が多いかもしれない。

 一番の常連は、福だ。

 けれど雪は、自分が一番、マキの家を訪れていると思っている。


「陸君は、何を飲む?」

「んー……」


 少年は一番の優柔不断だ。いつも三人がマキの家で何かを選ぶ時も、一番考え込むのは陸だ。様々なケーキが入った箱から好きなものを選ぶときでも慎重に選ぶ。どれを選んでも間違えなんてないし、美味しいのは確か。結局好きなケーキを選んでも、他の二人が食べる顔を見ると、なぜかいつも悔しい思いをしてしまうのだ。


「今朝、オレンジジュースを買ったからそれにするかい?」

「うん!」


 そんな少年の性格を知っているマキはいつも上手に彼を誘導してあげる。優柔不断はそんな悪いものだとは考えてない。むしろ、彼が一番、視野が広くて物事を魅力的に見る力があるのだと思っている。

 透明な、陸専用の(クマの絵が描いてある)コップに入ったオレンジジュースを両手でしっかりと持ち、コップの半分くらいまで一気に飲んだ。


「美味しい?」

「うん!」


 そんな、優柔不断の陸だが、こうやって、素直に育っているのを見ると、マキは嬉しかった。

 さっきまで外のウッドデッキで日向ぼっこしていたコニーも起き上がると、少年に挨拶した。


「やぁ、コニー。いい子にしてる?」


 コニーは尻尾を振って、陸の座る椅子の周りをクルリと一周すると、スッとまた元の場所に戻って気持ちよさそうに太陽の光を浴びていた。どうやらご飯を食べ終わった後のようだ。

 コニーは、子供たちと一緒に飛び跳ねるのがお仕事だが、最近では相手の様子を窺って、お行儀よくする。コニーだって、いつまでも子供のままではないのだ。


「そういえば、雪ちゃんになにか用があったの?」


 少年は少しだけ、口ごもって答えた。


「別に用ってわけじゃないけど……」

「ふふふ、陸君は雪ちゃんのことが大好きなのね」

「そんなんじゃないよ……」


 少年はマキの前ではとても素直だ。その恥ずかしそうな顔が、そうでないのだという事はマキにはバレバレだ。少年はフードをさらに深く被ると、ウッドデッキで気持ちよさそうにひっくり返ったコニーを見て、気持ちを落ち着かせた。


「陸君は絵の調子はどう?」

「いつもと変わんないよ、僕は絵が上手じゃないからね」


 三人の中では断トツで陸の絵は下だが、そういうのも無理はない。一人は町一番の努力家で、一人は天才肌。少年に関しては、どこをとっても一般的であり、誇れるものはこれといってない。


「そんなことはないわ。陸君の絵は陸君にしか描けないもの」

「うん」


 マキは誰に対しても平等に優しい。三人が喧嘩になった時だって、平等に話を聴いて、冷静に答えを出す。叱られるのが自分だったとしても、最初は確かに腑に落ちない。けれど、心が落ち着いて、ベッドの中でその出来事を思い返せば、マキの判断は間違ってなかったと分かるのだ。そして、次の日にはきちんと反省して謝りに行く。

 マキはいつも中立な立場でいてくれて、先生みたいな人なのだ。そんな居心地の良さが、三人の子供たちの大切な場所となっている。


「よかったら、壁に描いてみるかい?」

「え……」

「実は、雪ちゃんが今日描きに来るかもって思って、他は断ってたの。けど、雪ちゃん、来たとしても今は描かないかもしれないし、真っ白なままよりは……ね?」

「だけど僕……上手じゃないし」

「描きたくなかったらいいのよ」

「そんなことないよ!」

「じゃあ、決まりね」


 マキは魔女なのだ。言葉巧みに少年を誘導して、まんまと少年に絵を描いてもらえるように仕向けた。

 二人が外壁の真っ白のキャンバスに立つと、マキが言った。


「さて、何を描こうかしら」

「うーん」

「陸君はいつもどんな絵を描くの?」

「え⁉――――どんな絵って……」


 少年はいつも誰かの絵を真似る。自分で描きたいと思う絵を描く時は滅多にない。書くとするなら、少女の絵。

 さすがの陸も、この壁に雪の絵を描くのは躊躇って口籠る。


「大丈夫、ゆっくり考えましょ。無理に何か書いてもいいものは描けないのだから」


 マキは少年の気持ちを汲み取りながら、ゆっくりと言った。と、言えど、少年は下を向いたまま思考が停止しているようだった。

 それを見かねたマキはチョークを手にすると、スッと壁に絵を描き出しながら、少年にアドバイスをした。


「陸君は知ってる? トリックアート」

「トリック……アート……?」


 少年はそんな言葉を聞いたことが無くて復唱した。

 マキはすいすいと壁にドアの絵を描いていく、時に視点を変えながら。ある程度、簡単に書き上げたマキは、満足そうな顔をすると、少年の顔を見た。


「どう?」

「なんだか、不思議な絵だけど……」

「実はこれ、陸君が思っているよりももっと不思議ななのよ」


 マキはそういうと、陸の手をとって、少しだけ移動した。そうするとどうだろう。そこにはないはずの本物さながらの入り口があるのだ。


「え⁉」

「ね? 不思議なでしょ?」


 少年は驚いて、また見る位置を変えると、そこにある扉は絵になった。


「どうして⁉」


 マキは嬉しそうに説明した。


「だまし絵とも言うんだけれど、その種類は様々なの。この絵はその中でも、そこにないものをあるように見せる絵なの。面白いでしょ?」

「ないものを……あるように……」


 マキは優しい眼差しで、自分の子に話すように言った。


「陸君は、こういう絵がきっと向いてると思うわ。人を楽しませる絵。ないものを作り出せばいいの、好きなように」


 そこに優柔不断の少年の姿は無かった。それに必要な核自体は備わっていたからだ。それは、絵が好きだという事。

 少年の目に、もう迷いなどなかった。


「マキおばさん。僕にその絵の描き方を教えて!」

「私のわかる範囲でなら教えてあげるわ」


 少年はマキの話をしっかり聴き、初めてながらも、一生懸命にチョークを減らした。

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