13 憧れの人がいる町

 あの後、少女はしっかりと外に持ち出したフライパンや鍋やヤカンをもとの場所に戻した。

 そして不意にマウスのことが頭をよぎった。マウスには帰る家がないと言っていた。だからいつも決まった場所に座り込んで、本を読んだりしている。

 雪の頭の中では既に次の行動は決まっていた。さっきまで差していたビニール傘と、黄色い傘を手に持つと、足早に家を出た。

 マウスのいる場所は隣町にあるシャッター前。そこまでは歩いて十五分くらいのところ。歩けば少しかかるが、例えればそうでもない。食パンを焼く作業を三回くらいすればいいだけ。あっという間だ。

 そんなことを考えながら目的地に到着した雪であったが、肝心のマウスの姿がなかった。もしかすると、マウスは消えてしまったのではないか。そんな不安が頭をよぎり、少女はソワソワと周りを見渡して、大きな声で彼の名を叫んだ。

 しかし、少女の声は雨の音にかき消され、彼の返事も聞くことも出来なかった。

 少しの間、マウスがいつも座っているシャッターの前で時間を過ごした。空空漠々とした様子で遠くを見ていると少女の中で微かに希望が湧きあがった。

 いつものパン屋さんにいるかもしれない。


「カランコロン――――いらっしゃいませ」


 ドアの上部に付いたカウベルが落ち着きのない音で歓迎し、店の奥から声が聞こえた。

 少女は初めてこのパン屋の正面から入った。いつもはマウスと共にタダでもらえるのために裏口で待機するだけだ。

 正面の入り口から入ると、裏口から香るよりもさらにパンの心地よい匂いが香り部屋いっぱいにそれが広がった。それに、少女の目の高さにはたくさんの甘そうなパンがいくつも並び目を輝かせた。

 そして、少ししてから店の奥からあの、女性店員が現れた。


「あら……雪ちゃんよね?」

「うん!」

「ポンチョを着てたから違う子に見えちゃったわ」


 パン屋の女性はそういうとにっこりと笑った。雪は、女性の来ている服装だったり、被っている真っ白い頭巾がとても輝いて見えた。


「今日はおつかいかしら?」

「うぅん。マウスを探しているの!」

「マウス……?」


 女性はその名前を聴いてすぐにはピンとこないようで、少し考えてから、少女の探している人物の顔が浮かんだようだった。

 そして女性が次に声を出すときに、また一人、店の奥から人が現れた。


「やぁいらっしゃい」

「こんにちは!」


 その男性も素敵な服装をしていた。雪に挨拶した男性は、隣にいる女性に雪のことを簡単に聴くと、そうかそうかと笑顔になった。


「そういうことなら、もうあがってもらっていいよ。今日はお客さんも多くは来ないからね。そこのテーブルで、雪ちゃんと話せばいい」

「え……でも」


 女性は控えめにそれを拒むと、さらに店主である男は強引に言った。


「いいんだよ。な、雪ちゃん。うちのパン、食べてくかい?」

「うん!」


 雪はあまり状況が掴めないようだったが、美味しいパンを食べさせてくれる事はしっかりと理解して、元気よく返事をした。

 それから、パン屋の優しい店主の男性に、好きなパンを二つ(メロンパンと杏子パン)貰ってそれを食べながら女性を待った。そして少ししてから私服に着替え終わった女性が店の奥から現れた。

 ベージュで落ち着いた花柄のフィッシュテールワンピース。さっきまで頭巾で隠れていた透き通るようなきれいなブラウンのふわっとした髪の毛。なんだか大人びていて、引き込まれるようだった。


「雪ちゃんお待たせ。パン美味しい?」

「あ……うん! ここのお店のパン、すごくおいしいわ!」

「良かった。親方さんも喜ぶわ」


 そういいながら、鞄から財布を出して、カウンターに向かい女性もいくつかパンを選んで戻ってきた。

 そして、雪の前にココアの入った紙コップを渡した。


「良かったらどうぞ」

「ありがとう!」


 女性はにっこり笑って自分の紙コップに入った飲み物を一口飲んだ。

 そして雪は、思い出したかのように、女性に質問した。


「そういえば、お姉さんのお名前、まだ聞いてなかった!」


 女性はちょっとだけ驚いた顔をして、にっこり笑った。


「お姉さんでいいよ」

「ダメよ! 名前は大事なの!」


 女性はまた驚いた顔してクスリと笑った。


「お姉さんはユズっていうわ」

「いいお名前。じゃあユズお姉さんだね」

「それなら、ユズ姉でいいわよ」

「分かった!」


 二人して声を出して笑顔になった。それをカウンター越しに見ていた店主も微笑んで、その様子をみて安心したかのように店の奥に姿を戻した。

 そして、パンを食べながら柚子は少女に質問した。


「雪ちゃんはあの人と、どうして知り合ったの?」

「散歩してたら偶然見かけたの。それから近づいて挨拶したわ」

「そう……あの人もそういってたけれど、本当だったのね」

「ユズ姉はマウスの幼馴染なのよね?」

「え……。あの人が言ってたの?」

「うん!」


 柚子は少しだけばつが悪そうにして、また雪に質問した。


「マウスっていうのは……彼のニックネーム?」

「名前よ! マウスがそう言ったから、そう呼んでるの。ユズ姉はマウスの本当の名前、知ってるの?」

「えぇ勿論。雪ちゃんは彼の名前、知りたい?」


 少女は少しだけ考えて、笑顔で首を振った。


「知らなくてもいいの。マウスはこう呼ばれたいみたい」

「ふふふ、そうなのね」

「うん!」


 そして、ココアも温くなったころ、雪は思い出したように大きな声を出した。


「そうだ! マウスを探してたんだった。ユズ姉はマウスの居場所をしらない?」


 柚子は明らかに嫌な顔をした。それがなぜなのかはわからなかったが、彼女はこういった。


「雪ちゃん。あんまり彼と一緒にいちゃダメだわ……」

「どうして?」

「彼は……その……」


 彼女はそれから先をきまりが悪そうにして口籠った。

 そして、雪は思ったことをスッと口にした。


「マウスは雪のお友達なの、だから心配なの」

「……あのね雪ちゃん。彼は……一人になりたい人なの……」

「そんなことない! マウスはおしゃべりで、きっと寂しがりよ!」

「お願い雪ちゃん。これ以上、彼と一緒にいてはだめなの……これは雪ちゃんの為よ」


 雪は今、仲良くなったばかりで、綺麗で大人びて――――それでも、こればっかりは柚子の言葉に肯定することが出来なくて、お店を飛び出した。

 なんだかとても嫌な気持ちになった。ユズ姉は、いい人、嫌な人。この二つがぶつかり合って、けれど、どうしても悪い人だとは思えなかった。だって、彼女の笑顔はとても綺麗だったから。

 雪は前にマウスと来た公園に訪れた。何となく、残る心当たりはここだけであり、案の定、マウスはそこにいた。

 マウスは東屋あずまやのベンチでうつ伏せになり、読みかけであろう本を顔に載せて眠って、そばには袋に入ったパン耳が置かれていた。


「マウス? ねぇ、マウス?」


 マウスはなかなか起きなくて、少女は男の体を軽く揺さぶると、驚いたように体を起こした。


「あぁ、ビックリした。お嬢ちゃんか。どうしたの?」


 雪はさっきのモヤモヤとする気持ちと、今まで探して、やっと見つけることのできた嬉しさとが混ざり合って、マウスの体に抱きついた。


「探したの」


 マウスはそっと雪の頭に手を置くと、無言で撫でた。それは大吾郎の手と似ていて、大きくて暖かくて、安心感のある手。

 少女が落ち着くまで、数分間、その場所だけ時間が止まったかのように静かだったが、マウスの声で現実に戻って、周りの雨の音が有りのまま伝わった。

 少女はマウスの隣にちょこんと座り、マウスも姿勢を正して手を上空に突き上げて背伸びをした。


「それで、どうしたんだい?」

「雨が降ってたからね、音を楽しんでたの」

「それは随分と素敵なことだね」

「そうなの。今まで知らなかった音が沢山聴けたわ。

 それでね、何となく、マウスのことが心配になったの。どうしてるのかなって」

「なるほど。僕は雨の日はここに来る。屋根があるからね」

「ここは素敵ね」


 マウスは置いていた袋を手に取ると、中からパン耳を取り出して咥えた。

 それを見て、雪はパン屋に訪れたことを話した。


「それからね、マウスの幼馴染にもあったわ。ユズ姉て呼ぶことになったの。ユズ姉、とってもきれいな人なのね」

「名前……もしかして、僕の名前も訊いたのかい?」

「うぅん。気になったけど、訊かなかったわ! いつか、マウスの口で教えてほしいもの」

「僕はずっとマウスでいいよ」

「えぇ、マウスって名前も素敵な名前よ」


 マウスは少しだけ悲しい笑みを浮かべたが、少女はそれに気が付かず、今日した音の話の続きを熱心に語った。

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