26 過去を巡る町
雪が目を覚ました時には既にマウスは隣で本を読んでいた。普段は寝室が暗闇に包まれカーテンの隙間灯りがちらつく程度だが、今日は全身にその光が当たり、太陽が一日の始まりを主張するように燦々と輝いた。
快晴だった。
雪はむくっと体を起こすとマウスに目が合った。少しだけマウスを意識するように目を合わせようとしたが、マウスはいつものマウスで、いつものように自分の世界に没頭していた。
「マウス、おはよう」
「――――やぁ……お嬢ちゃん、おはよう。よく眠れたかい?」
少女はこくりと頷くと両腕を上空にあげて両足のつま先が
「今日は何をするの?」
少女はいつもの調子で尋ねた。
「今日はちょっと用事があるんだ。お嬢ちゃんは今日、どうする?」
「うーん……」
少女にはこれといって行くところもなければ、したいこともない。ただ傍にマウスがいてくれればよかったが、ずっと引っ付いて迷惑をかけたくなかった気持ちもあった。
「行くところがなかったら、ユズのところにいたらいいよ」
「けど……」
「大丈夫。ユズだって人の気持ちを汲み取ることのできる人だから、きっとそっとしてくれる」
「――――うん」
マウスはそういうと立ち上がり、それじゃあ行こう、といつにもなく、声を張るように言った。そしてその細くて大きな手を握り、雪はマウスに引っ付いた。
パン屋の裏口に着くと、いつものように不思議なノックをすると、柚子はすぐに扉を開けた。一緒にいると何か言われるかもしれない、と少女は少しだけびくびくしていたが、マウスの言った通り今日の柚子は、二人でいるときの柚子のままに、優しく接してくれた。
そして、マウスはいつものようにパン耳を受け取ると、柚子は店の奥に姿を消して、また別の袋をマウスに渡した。
「大丈夫。私が買ったのだし、これは雪ちゃんが心配だから」
「あぁ、助かるよ――」
マウスはそういうと少しだけ事情を話して、今日の午後、少女を預かってくれないか、と柚子に頼んだ。もちろん柚子は喜んでそれを受け入れてくれた。
それから二人は、マウスがいつも訪れる公園に向かった。公園に着き、ベンチに座ると早速、朝食をとった。マウスは袋の中から一つパンを取り出すと少女にミルク瓶と一緒に渡した。少女はいつものようにパンを半分にすると、一つをマウスに渡した。マウスは、ありがとう、と優しく微笑んだ。なんだかそうしていると何もなかったようにただありふれた日常を過ごしているように感じるが、少女は家出をしているのが現実だ。
食事を終えると、マウスは言った通り、出かけるから柚子のところへ行こう、と言った。
柚子の働くパン屋にたどり着くと、二人で珍しく正面から覗いた。店内はガラス張りの壁で、中を覗けるようになっている。中にはお客さんが多かれ少なかれといった数の人がいた。しばらく外で待っていると、お客さんは好みのパンをトレーに載せると会計を済ませ、時には一言二言、柚子と会話をして店を後にした。店を出る際は二人を一瞥したが、二人は二人とも何とも思わないように堂々とした態度で柚子のことを待った。
すべてのお客さんが店を後にすると、柚子は店内から急ぐようにして現れた。
「正面から現れるなんて珍しいわね。これっきりにしてよ」
「お疲れ様。あぁ、すまない、気を付けるよ」
柚子は冗談めかしてそういうも、顔は少し喜んでいるように見えた。
「このお嬢ちゃんの事、頼めるかな?」
「えぇ、もちろんよ」
柚子はそういうと、手を差し出した。少女は壊れ物にでも触れるように慎重に手を握った。その手はマウスと同じで細くて温かかった。
「まだ私はお仕事あるから、私の部屋に案内するね」
柚子はそういうと少女は心配そうにその目を見た。柚子は終始笑顔といった様子で雪を安心させた。マウスが、じゃあ行くね、と行ったときには雪も既に笑顔でマウスを送り出した。
*
マウスが訪れた場所は、雪の住み慣れた町、らくがきの町だった。雪の家は訪れたことは勿論なかったが、その場所は柚子から聞いていた。マウスはらくがきの町の中心部にあるウォール街を抜けると、柚子の描いてくれた地図を頼りに右へ左へと歩いた。どの壁にも落書きがされていて、マウスは初めての感覚に飲み込まれるようだった。芸術に一切触れなかったマウスだったが、そんな彼でもこの町の様々な絵は歓迎してくれるようで、そのいくつもの絵の中にはマウスの心を奪う絵もあった。
マウスが柚子の地図通りにたどり着いた先は、先ほどよりもらくがきの少ない場所で、いわば街はずれだった。少女の家と思われる建物は山小屋のような木で建てられた物だった。それは見るからに、裕福な家ではないのだとも伺えた。
マウスは戸口の前に立ち止まり、深呼吸をした。大きく吸って、力を抜くように肩で吐くようにして空気を抜いた。
マウスは意を決して扉を叩いた。少しの時間を置いて、中からは真っ白なひげを蓄えた老人が出てきた。それは大吾郎だった。
「君は……マウス君かね?」
「えぇ。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません」
「いえ。結構だよ」
大吾郎はそういうと、家の中に招き入れた。
家の中は無駄なものは殆どなく、十歳の元気な女の子が住んでいる家とは到底感じさせなかった。椅子に座ると、大吾郎はガスで湯を沸かし、コーヒーを淹れた。
そして、コップを二つテーブルに置くと、大吾郎から話を切り出した。
「マウス君のことは雪から聞いているよ。雪はきみのことを本当に慕っているんだよ。いつもきみに会った日はきみの話ばかりする」
「はぁ……」
「最初はホームレスと聞いて不安で、君に一度は会いたかったんです」
「すみません、遅くなってしまって……」
「いいんですよ。あなたにはあなたの事情がある。私には私の事情があるように」
大吾郎はそういうと、コーヒーを一口啜った。
「それにね。私は雪を信じていたんだ。雪はしっかりと人を見ることができる。だから、マウス君が私のところに現れなかったとしても別によかったのだよ」
部屋の中には何とも言いようもない空気が流れたのは確かだった。そしてそのぽつんと蛇口から落ちた水滴の音でマウスは話を切り出した。
「あの子の家族の事、教えていただけませんか?」
大吾郎は顔色一つ変えず、もう一度カップを口に付けて一啜りし、またカップをテーブルにコトンと置いた。
「マキからは事情を聞いた。私たちもいつか話そうと思ってはいたんだ。けれどね、年をとっていようが、そういった後ろめたさのあることというのは言いにくいものなのだよね。あの子の為を想ってこれまでやってきたつもりなのだけれど」
マウスはその言葉に口を挟まずに小さく頷いた。
「マウス君。君はどこまで知っている?」
「あの子のお婆さんがマキさんであることしか……」
「その通りだよ。マキは私の妻だ。それは今でもね――」
「あの……それじゃあ、なぜ、別々に暮らしているのですか?」
「フフフ……今考えると、子供染みたことだよ。マキとは意見の食い違いのせいで別々に暮らすようになった。けどそれは私が謝れば済む話なのだよ。けど、それが分かっていても、そうすることはとても難しいことなんだよね」
「今からでも遅くは……」
「どうだろうね。まだ意地になってるんだろうね。そのせいで雪を傷つけてしまったというのに」
「そうだとしても、彼女はあなたたち二人のことを恨んだりなどしてないですよ。彼女は賢い。それはあなたたち二人がいつも大切なことを教えていたからですよ。人の気持ちを汲み取ること。僕は今まであってきた人の中でも、彼女はそれが人一番表に出ています」
マウスは素直な心で思ったことを正直に口にしていた。それを聞いた大吾郎も優しく微笑んだ。
「なぜこうなったのかも話さないといけないね――」
大吾郎はそういうと、少しだけ間を空けた。雪にする時のようないつもの間だった。
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