27 変化した町
マウスは固唾を飲むようにして顎を引いき、大吾郎の瞳を見つめた。その瞳の奥は永年の後悔を彷徨っているようだが、確かにその過去を捉えて向き合っていた。そして深く息を吐くと、語り始めた。
「私とマキはこの芸術を愛する町で出会った。初めて会ったのはマキが十歳で私が二十歳のときだ。私はもちろん絵を描く仕事をしていた。今と変わらず、あのウォール街の壁にも絵を描いては、少ないながらの収入で生計を立てていた。そして少女に出会った。彼女は隣町の子供で、たまたまそこに訪れたそうだ。そしてそれは本当に偶然で、出会ったといってもただ目が合っただけだった。その少女は私に近づいて尋ねたよ、『あなたは絵描きさんか』と。そして私は、そうだ、といった。その時の彼女は芸術には触れたことすらなくて、彼女は絵を教えてほしいと言った。もちろん私は頷いたよ。断る理由がなかったからね。今考えると不思議なことだね。道端で目が合っただけの子供に絵を教えることになるなんて」
マウスが適当に頷くのを確かめると、大吾郎は続けた。
「彼女はそのころ学校に通っていた。普通の学校だよ。文字の読み書きをしたり、計算を解いたり、縄跳びをしたり。私は学校には行ったことがなかった。それで私は提案したんだ、『代わりに文字の読み書きを教えてほしい』と。彼女はもちろんそれを受け入れた。それから私たちは互いに足りないものを補い合うようにして手を結んだ。あのころは楽しかったよ。それまでは物心着くころには芸術に触れていて、ただ何となく絵を描いていたのだけれど、彼女と出会ってからそれが少しずつ変化したんだ。私は文字を読むようになって本を読めるようになった。絵を描きながら休憩がてらに本を読むと、なにか新しい発想が湧く時があった。そして、彼女が十七の時、お腹に赤ん坊ができた。それはとても複雑なことだった」
「複雑なこと……」
「あぁ、複雑だ。彼女はまだ学生だったのだよ。彼女はやむなく学校を辞めた。私は子供をつくるようなことをしておいて、本当に申し訳なく思ったよ。その時の私は、文学を学ぶことはとても偉大なことだと思っていたからだ。私自身がその文学で多くの影響を受けたからでもある。けれど、私の心配を他所に当の本人はケロッとした様子だったのを今でも覚えている」
「マキさんは既に芸術に惹かれていたからでしょうか?」
「あぁ、その通りだ。気にしないでくれ、と言ってくれた。それから私たちの間には息子ができた。それからかな? 私は家族のために絵を描くようになった。私は今まで、より良い絵を描くためにはそれを探究することだと思っていた。けれどね、なぜか家族を養うために描いた絵は以前よりも評価されるようになったよ。不思議なものでね、その絵は昔より活き活きとしていたよ。それもあってか、息子を学校に通わせることもできた。全てが上手くいっていたよ」
大吾郎が話すその様子は当時の記憶が体に表れるかのように若々しく見えた。大吾郎の瞳は澄んでいた。
「息子も、私たちのように学校に通いながら芸術を学んだ。それはとても塩飽汗なことだ。学校では先生から文学を教えてもらい、家では本物の芸術家に絵の指導してもらえるのだから。その時にはマキもそれなりの才能があったよ。息子は私たちの希望通りに育ってくれた。学校においてもとてもいい成績をだし、芸術においても才能があった。そして、息子が十八の時には品のある女性を紹介してくれた。その女性も芸術を好む人で私たちは歓迎したよ。とはいえ立派に育ってくれた息子が選んだ女性だ。どんな人でも許したがね」
「まさに順風満帆ですね」
「そうだ。風は吹き続けた。それからも吹き続けるはずだった」
さっきまでぱっと開いていた瞼は重くなり、その瞳は次第に光を失ったようにその奥にある輝きが深い闇に落ちた。外は快晴であるはずなのに、部屋に注がれる光は確かにぼんやりと暗くなった。
そして大吾郎は続けた。
「息子夫婦にはめでたく娘が産まれた。私たちはその息子夫婦と共に一緒に暮らした。そしてそれぞれ好きに絵を描いた。そして、何年か経ったある日、私はある作品を協力して仕上げようと提案した。それがウォール街の作品だ。マウス君はここに来るまでにウォール街を通ったはずだね?」
「えぇ通りました」
「一番端に描かれた絵を覚えているかい?」
大吾郎が言った絵はすぐに頭に浮かんだ。その絵はマウスがそれらの絵の中でも特に印象に残った絵だったからだ。大きくスペースのとられたおおよそ未完成と思われる絵。けれど、その絵はこの町を豊かな色彩で表現していた。『芸術を愛する町』と呼ばれるその絵は、雨の日のウォール街の壁の絵が流れる様子を描いていた。それはマウスでさえも心奪われる絵だった。
「覚えています。ウォール街の雨の日の様子でした。これまで芸術に触れてきたことのない僕でも、あの絵に何か特別な感情を抱きました」
「それじゃあ、あの絵の中の壁を覚えているかい?」
「確か、この町の雨の日を描いて、壁の絵は雨で流されるような表現をされていました」
大吾郎は静かに頷くと、話した。
「実は、あの絵が描かれたときには、この町のルールは違っていた。この時はまだ、消えるペンで描くといったルールはなくて、毎度毎度、評価されなかった絵を役場の連中が消していたんだ」
マウスは疑問に思ったことをすぐに質問した。
「では、なんであの絵の中では壁の絵は流れていたのでしょうか?」
「私たちの想いだよ。こうなればいいなといったね。そしてそれは現に町の人々に評価され、ルールは変わり、今でもあの絵は壁に残っている」
以前、雪はマウスに話したことがあった。自分の一番好きな絵のことを。その為、マウスはウォール街を通った時にその絵を意識してみていた。けれどその絵はそれとは別に、マウスの心を奪ったのだ。そんな絵の作者が、少女の身近にいた事にも驚いたが、その絵にそんな真相が隠されていたことにもマウスは驚きを隠せなかった。そして、必死になるように訊いた。
「あの絵は、なぜ未完成なのでしょう?」
大吾郎は優しく微笑んだ。
「作者がいなくなったからだよ」
部屋の中には異様な空気が目に見えるように歪んだようだった。マウスはそんな空間に恐怖すら感じた。
「マキさんも、あなたもここに居るという事は……つまり……」
大吾郎は少しだけ声に出して笑った。それはマウスが少しの勘違いをしているのが分かったからだ。大吾郎はゆっくりと話の続きを始めた。
「絵はほとんど完成していたんだ。そしてその時、ちょうど、息子夫婦には二人目の子ども、つまりは雪がお腹にいることが分かった。あの絵は私たち四人で完成させるため、最後にどうしても時間が必要になったんだ。そしてその時、私たちの間に大きな問題が出たんだ……」
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