28 泣き声が響いた町

 ――――およそ十年前――――


 大吾郎とマキの二人目の孫として産まれてきたのは小さな女の子だった。その姉であるしずくの顔は母親である沙織さおりゆずりでとても美しい顔立ちだった。


「シズクはダイキに似なくてよかったな。この子はどっちに似るのか?」

「そんなこと言わないの。どちらに似ようが、私たち可愛い孫なのにはかわらないわ」


 そんな風に、産まれたばかりの雪はベットで横になる母親に抱かれ、そのそばに大吾郎とマキが椅子に座り見守るように、その肌がまだ赤く生き生きとした赤ん坊を見つめた。


「あの……ダイキさんとシズクは……?」

「シズクがお腹空かせてぐずるからご飯を食べさせてるよ。サオリさんは何も心配することはないよ」

「ありがとうございます」


 *


 沙織と赤ん坊の雪が病院を退院してから数日経った。家の中に新しい家族が一人増えただけでひと際騒がしくなる。雪はよく泣いた。そしてそれをあやしたのは率先して大吾郎だった。普段は無口な大吾郎だったが、人一倍、赤ん坊のお守が好きだった。


「こら、雪、なぜ泣くんだ。ちゃんと喋ってくれないとおじいちゃんは分からないよ」

「あなた、それじゃあ、あやしてるなんて言わないわよ。きっと雪ちゃんもお母さんに抱っこされたいのよ」

「うーん……」


 人一倍お守が好きな大吾郎だったが、人一倍、お守が拙かった。それでも、なんとか泣き止まそうと何度も果敢に挑戦した。そのたびにマキが優しくアドバイスした。


「そういえば、壁の絵はもう完成しそうなんですよね?」


 沙織は思い出したように訊いた。すると大吾郎が答えた。


「あぁ。あとは沙織さんが手を加えてくれればいい。けど、焦ることはない、街の評判はいいから当分は消えることはないから。ゆっくりでいい」

「そうですか、なるべく早くには手を付けられるようにしますね」


 沙織はそう若々しく自然な笑顔をした。それは昔のマキでも見るように、とても綺麗な笑顔だった。

 そしてその日が来た。その日は雪がよく泣いた。いつにも増して、何かを訴えるように必死だった。体全体から発するように力いっぱい泣いた。


「父さん。話があるんだ」

「どうした?」


 家族で食事をとっているときだった。息子の大希が覚悟を決めたように力強く口を開いた。その隣では泣きじゃくる雪を母親の沙織は一生懸命にあやした。いつもなら母親に抱っこされると泣き止んでくれる赤ん坊の雪は今日はそうもいかず、なかなか泣き止むことはなかった。


「この町を出ようと思うんだ」


 大吾郎は無表情のまま、食事をつづけ、口の中のものがすべてなくなると箸を置き、話を聞いた。


「俺、勉強を教えたいんだ。芸術も勿論好きだけど、それ以上にやりたいことが前からあったんだ」

「――――文学は確かに大切だ。けれど、私がそれを学ばせたのは、芸術のためだ」

「俺、一度はあきらめたんだ。けど、やっぱり、それができない……」

「どうしてできない? 今まで通り、絵を描けばいい。お前はそれなりの才能があるんだ。何を描いたってこれからもやってけるだけはある」


 大希は真剣に悩むような素振りを見せた。髭も生えてないのに、その顎を親指と人差し指で何度かつまみ、そして答えた。


「――自分でもそう思うよ。けど……それだと全然楽しくないんだ」

「それはお前の意識が低いからだ。けど大丈夫、時間が経てばきっと――」

「違う。時間じゃ解決できるような問題じゃないんだ」

「んー……。サオリさんはどう考えているんだい?」


 大吾郎は助けを求めるようにそう尋ねた。けれど、大吾郎の思う様に事は進まなかった。


「私は……どこまでもダイキさんについていくつもりです……」

「――どうしてだ? そんな道に進んでも、上手くいくかなんてわからない。下手すれば、孫たちにも影響があるんだぞ」

 

 大希の傍に座った雫も少し強張るように身を縮めていた。

 そして、いつにもなく大きな声で大希が言った。


「後悔はしたくないんだ――――――分かってほしい……」


 広い空間に赤ん坊の泣き声だけがこだまするように部屋の壁にぶつかった。もしかするとそれは、鳴き声をあげることで少しでも空気をかえようとしたのかもしれない。

 長い間……といってもほんの数分、大吾郎は口をつぐんでいたが、閉じていたまぶたをそっと開き唇以外をほとんど動かさずに言った。


「雪は置いていきなさい」


 その場にいた誰よりも先に反応したのはマキだった。マキの表情は、今までに大吾郎すら見たこともないくらいに目を見開き、口も開くというよりは無意識に少しだけ開けた。


「あなた! そんな酷いことダメよ!」


 沙織に関しては大吾郎の言葉に体を硬直させ、泣いている雪の声すらも遠のいているようだった。


「町をでるならば、そのくらいの覚悟がいる。その覚悟はあるのか」

「――――――――くっ……ぅ…………」


 大希の声にならないくらいの葛藤が思わず口から零れ出た。大希は雪の紛れもない父親なのだ。親が子を手放すのがどれだけ困難なことで、苦しいことか。それだけではない、悲しみや辛さ、切なさであったり、考えただけでも胸に突き刺さるような痛み。言葉では到底表せられないのだ。

 大希は椅子に座ったままぐったりと首を落とした。大吾郎としても、そんな理不尽でいて道理に背くような条件を出した自分にも驚きと、後悔のような思いがちまち荒波のように押し寄せたが、それでも、息子の選択肢が確実に絞られたことに、安堵した。だが、求めるものは遠のいた。


「――分かりました………………あの絵を完成させたら、僕たちはこの町を出ます…………」


 ここまでくると、もはや大吾郎は意地になっていた。


「それは必要ない。準備ができたらすぐにでも出ていきなさい」


 会話が終わって、思い返せばすべてはほんの一瞬の出来事のように、あっけらかんとした空気になっていた。その場にいた雫だけはイマイチ事の重大さはわからなかったが、明らかに悪い空気が煙草の煙のように目に見えて流れていることが分かった。プカプカと浮かぶ煙はどこに行くでもなくいつの間にか消えたのだが、その煙はしっかりと壁に染み込んでなくならなかった。

 その準備にはほとんど時間などかからなかった。持ち出す荷物などほとんどなかったからだ。最後まで必死になってそれを止めていたのはマキだった。マキはこれまでに見せたこともない程に血相を変えて、そのいつも優しさのある顔は次第に崩れていった。全てはドミノ倒しのように。もう止まることはなかった。マキは誰にも頼ることができず、ただ一人その場に溶けるように崩れた。家の中には赤ん坊の雪の泣き声と混ざり合う様にして二人の泣き声が重なった。

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