29 快晴の町
「それで……何故、あなたはマキさんを残して家を出ることになったんですか?」
マウスは深刻そうな表情で大吾郎の話を一通り聞くと尋ねた。大吾郎は再び深いため息を吐いた。
「マキが家を出ようとしたからだよ。ただそれだけ。私がそれを止めて、私が雪を連れて家を出た。マキはただ泣いていた、今でもそれをよく覚えている」
「――――そうだったんですね……それからは大希さんたちとは会ったんですか?」
「いいや。あれから一度も会ってはいない。恐らくはマキも会っていない」
マウスは何と言っていいのかもわからずにただじっとするしかできなかった。そしてその沈黙を破るように大吾郎は話した。
「最初は雪を何としてでも、この町で絵を描いてもらうために育てていこうと思ったよ。けどね、いざ、子育てをはじめるとそんなことどうだってよくなったよ。ただ、この子には好きなことをしてほしいと願うようになった。私は雪と暮らすことでやっと大切なことに気が付いたよ。私は芸術を愛せてなどいなかった。ただ、執着していたんだ。息子にはそれを無理に押し付けていた。気が付いた時には何もかも遅かった――――」
「まだ間に合うんじゃないんですか?」
大吾郎は少年のようにはにかむように笑った。
「それは難しいことだ。息子夫婦はどこにいるかもわからない」
「できることをすればいいんです。今できることは、マキさんと話し合う事です。きっとマキさんだってあなたのことを待っています。それに、男というものは紳士でなければ――」
「――――マウス君。君は面白いね。やっぱり雪の言っていた通り、君はいい大人だ」
そして大吾郎は思い出したように話した。
「昨日のパン屋のお嬢さん。あの子はとてもいい子だね」
雪が家に帰らないのはさすがに心配するだろうと、マウスが柚子に事情を話してほしいと頼んで、それで柚子は昨日、大吾郎の元を訪れていた。
「えぇ。心の優しい人間ですよ」
「大事にしなさいね」
「勿論です」
マウスはそれから何度か大吾郎の顔を窺うように口を開こうとしたが、言いたいことを言えれず仕舞いとなってしまった。
そして最後に大吾郎から雪を託された。
「マウス君。申し訳ないけれど、今は雪も心が複雑になっている。だから、雪が落ち着くまで一緒にいてやってほしい。できることなら、私が話したいことも伝えてほしい。君にしか頼れない……君だからお願いする……」
「はい。責任もってあの子を預かります。ちなみに、あの子はユズの家で預かります。パン屋の上の部屋に住んでます」
「ありがとう。本当にありがとう。私も私にできることをまずはやってみるよ」
大吾郎の顔はとても若々しく少年のような笑みをしていた。何も遅いことはなかった。それに気が付いた時、そこから人はどう行動するのかが重要なのだ。大吾郎の行動は正しい道を辿っている。だから、彼の顔は綺麗なのだ。
マウスは大吾郎の家を出る際、再度、大吾郎から感謝を伝えられた。やせ細った腕を丁寧に差し出して両手で握手をした。その腕には似つかわしくがっしりとした、期待や信頼が籠った握手だった。マウスは思わず涙ぐんだ。
「よろしく頼むね」
「はい……」
マウスはその日、パン屋の裏口の扉の前に手紙を置き、その姿を消した。降った雨が蒸発したように、いつの間にかマウスはいなくなった。けれど、時間はいつも通り過ぎていった。どんな時でも時間は正しく動いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます