30 満月の訪れた町
らくがきの町の隣町、すなわち、柚子の働くパン屋がある町では、マウスのことを大人しく待つ雪の姿があった。昼間の間は柚子もまだ忙しく働いているため、仕事の邪魔にならないようにと柚子の部屋で一人ぽつんと座った。暇つぶしに絵でも描こうとも思ったが、そんな気分にもなれなかった。絵のことを考えるとどうしても、マキの家の事を思い出す。
雪は仕方なしにじっと窓辺で外の様子を眺めた。通行人が幾度となくパンの香りに導かれるように店の方を見る。そしてそれがあたかも予定していたかのように足が店に向いた。雪はその光景を見るのが何だか面白おかしく、けれど、その気持ちが人一倍分かった。何と言ったって、雪はこのパン屋の味を保証できるほどに誰よりも常連の子供なのだ。
そして、時間は過ぎ、ある程度店が落ち着こうとしているのを見図ると、雪は柚子の部屋を出た。普段なら店のカウベルの音を響かせて、挨拶をするのだが、今日は柚子の部屋である、店の二階から階段を下りると、そこはもう店の中だった。
しばらく、いつも座っている席に一人で座っていると、やっとのこと、店の奥で作業していた柚子は少女の姿に気が付いた。
「あら、驚いた。いつからそこにいたの?」
「ずっといたわ、フフフフフッ」
「そろそろ呼びに行こうと思ってたの。小腹も空いたでしょ?」
少女は胸の内を見え透かれてしまったのは少しの恥ずかしさがあったが、そんなことよりも、食い意地には勝てずに、少し照れた様子で頷いた。
いつものように柚子と二人で座りお話して、たまに訪れるお客さんには丁寧に接客をしながら、いつもの時間になると少し早めに仕事を上がらせてもらっていた。
話をする中で、柚子は少女の今回の事情を未だに分かっていなかった為、とても気になるところだったが、彼女はそれを我慢して、少女の口から語られるのを辛抱強く待った。
「マウス、遅いね……」
日が落ちて、店ももう間もなく閉まろうとしていた時だった。一応は雪のことを一時的に預かっている状態なので、雪も迎えが遅いのを心配しているようだった。
そして、少女がマウスの身を案じるような事を言えば、柚子は笑顔で、大丈夫だよ、と言った。
外が真っ暗になると、ほんの一瞬、マウスがそのガラスの壁から見える通りに立っているのが分かった。雪も柚子もその時にほぼ同時に気が付き、安心するように顔を見合わせた。が、もう一度顔を向けると、その姿は無くなっていた。二人して店の外に出るも、その姿はなかった。
「おかしいわね。確かにいた気がしたのだけれど……」
「絶対にいた! あれはマウスだったよ!」
「うーん……」
柚子も確かにその姿をその目で見たために、この状況をどう解釈していいのかが分からなかった。そして、柚子は仕方なく、店の親方に言伝を残して雪を連れて、マウスを探すことにした。
柚子は雪に連れられるように様々な場所を巡った。
まずは一番近かったいつものシャッター前。だがそこにはマウスの姿はなかった。可能性としては一番あり得る場所だと踏んでいた雪は少し残念そうにしていた。
そして次は昼間に訪れる大きな公園のベンチ。そこも期待は外れ、その姿を確認することはできなかった。その後も、雪はその公園の東屋だったりも探してみたが、いなかった。
もしかすれば、海辺にいるかもしれない、とふと頭に浮かんだ雪だったが、今は海辺の近くに行きたくなかった。それはマキの家のすぐそばでもあるし、もし偶然にでもマキに会ってしまえば、今の心の準備が出来てない状態の為、また同じように逃げ出してしまうと思ったからだ。
「仕方ないね。もしかするとお店にいるかもしれないから、戻ってみようか」
柚子のその言葉に頷いた少女は、しっかりとその細くて長い手を握った。
店に戻って親方さんに話を聞くも、誰も訪れなかったという答えにがっかりしてしまった。そして仕方なく、マウスが迎えに来るまでは柚子のところでお世話になることにした。
「夜ご飯はカレーにするのだけれど、雪ちゃんはカレー、嫌いじゃない?」
「カレーは大好きよ!」
「それは良かったわ」
「雪もお手伝いする!」
「ほんとに? それは助かるわ。それじゃあ、まずは野菜を洗ってもらえる?」
少女はいつも大吾郎の料理のお手伝いをする。そのため、指示されるお仕事を忠実にこなしていった。雪がしっかりと洗った野菜は柚子がピーラーを使って皮をむく。その様子を見ていた雪はその作業が楽しそうで交代してもらった。皮をむくたびに、しゅっ、という音がなんとも珍しい音のようで、少女の料理に対する好奇心を掻き立てる。その間、柚子はサッとお米を洗い、コンロに火をかけた。
「マウスが迎えにきたら、一緒に食べてもいい?」
「うーん……」
柚子は雪が皮をむいた野菜を切りながら、あの人が断らなかったらね、と引っかかるように言った。
随分と時間がたった後、料理も作り終えていたがやはり彼女らの前にはマウスは現れなかった。そして仕方なく、二人でカレーを食べた。
「どうしちゃったのかしらね?」
「うん……」
カレーの味は、自分もお手伝いした分、今までにないくらいに美味しく感じられたが、正直なところ、そんなことは頭には残らなかった。今、一番求めているのはマウスの事なのだ。
「もし、今日、あの人が戻らなくても、今日はここに泊まったらいいわ。大丈夫、明日には見つかるわ」
柚子は少女を心配させまいと、そんな風に軽い口調で言った。しかしながら、柚子もこの時は本気で心配している訳ではなかった。第一、マウスは大人の男なのだ。痩せすぎてはいるが、そんな、一日いないだけで心配することはない。それに、今は目の前にいる雪の方が心配だった。
カレーを食べた後は柚子と一緒にお風呂に入った。体を洗いっこしたり、湯船では柚子が悪戯に手で交差にした隙間から水を、少女の顔めがけて吹きかけたりして、その建物に似つかわしくないはしゃぎ声が響いた。
そして、お風呂から上がり、一息ついた時に少女は窓の外で神々しく光る月を見ていった。
「満月だ!」
「あら、ほんとね」
火照った体を開いた窓から入ってきた心地いい夜風が包むようにして二人に触れた。まだ乾ききっていない雪の長くて黒い髪の毛を、柚子が後ろからついて歩き、母親のようにしてタオルで包んでトントンと拭いてやった。
「前にね、マウスが話したの。月の話」
「月の話? それはどんな話なの?」
「満月の日の話――――」
柚子はその話を尋ねながらに、既に、頭の中では過去の会話を思い出していた。
それは同じく、柚子がマウスに聞いた話。
「マウスね、今日みたいな、雲の見えない日の満月を待ってるんだって――――」
柚子の頭の中にあった過去の記憶と繋がった。まるで、一ピースだけ見つからなかったパズルのピースがポケットから不意に見つかり、しっかりとはまったようだった。
*
「なぁ、ゆず。知ってる? 海に敷かれる満月の日の月明かりを辿ると、自分の求める世界に行けるって話――」
「なにそれ。絶対迷信だよ。それに、そんなことすると死んじゃうから」
「それがさ、それは快晴の日に限られるんだ。それはとても珍しくて、滅多にないんだ」
「確かめようがない真実ね。けど、仮にそんな日があってもそんなことしないでよ」
「――――僕はね、別に何も望んでいないけれど、何か望んでいるとすれば、それは自由なんだ。僕にとっての自由は、ただ静かに暮らしていけること。もしかすると、本当にそんなことすれば死ぬのかもしれないけれど、それは僕にとって望むべきことなのかもしれないんだよね」
「馬鹿なこと言わないで」
「本気で言ってるんだよ」
「どうしてそんなこと言うの……」
「きっと、僕にも愛すべき人でもいれば、そんなこと思わないかもしれないけれどね」
マウスはそんな調子で、笑い話で済ませるように言った。
*
「ねぇ、ユズ姉? 聞いてるの?」
「えぇぇ……あっあぁ……きいてるわ」
「だからね。もしかすると、マウスは行きたかったところに行っちゃったのかも。けどね、そうだとしたら、寂しいけど、雪は嬉しい。だってマウスはそれを楽しみにしてたんだもの」
「そっか……」
柚子は無理に笑って答えた。
そして、雪と一緒にベットに入り、少女がぐっすりと眠ってしまうのをじっと待った。胸の中では溶岩でも体に流れるかのように熱く熱しているのが分かった。心の中では呪文のように同じ言葉が再生された。大丈夫、あの人はこの子が大切だから。大丈夫、あの人はこの子を一人にはしないから。大丈夫…………。だから、生きていて。お願いだから……。と。
少女がぐっすりと深い眠りについたのを確認すると、少女がもしも目が覚めてしまったときのために、テーブルの上に、メモ用紙を置いて、荒れ狂うほどな思いを留めてゆっくりと部屋の扉を開き、部屋を後にした。そして、店の裏口に出ると、そこには重石の載った手紙が置かれていた。
手紙を開くと、マウスから宛てられた手紙であり、それはお別れの手紙であった。
柚子は手紙を落とさないようにグッと、手紙にしわが入ってしまうほどに力を入れて、渾身の力を振り縛り、海辺に走った。
そして、海辺に着くも、誰の姿はそこにはなく、その代わり、まだ真新しいほどの足跡が、その砂浜には残っていた。柚子はその足跡を追うようにゆっくりと足を進めた。次第につま先、
彼女のその立ちすくむ先には、望むべき場所がないところに行ってしまったマウスの辿った道をまん丸い月明かりが照らした。
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