32 待っている町

 それからはあっという間だった。

 雪は大吾郎とマキの三人で揃って毎日ご飯を食べ、ごはんを食べると、それぞれが作業に取り掛かり、雪はウォール街の壁の絵を完成に少しずつ近づけた。

 柚子はパン屋の親方に事情をはなし、町を出るまではパン屋で仕事をすることになった。

 そして陸も、雪とは別に、マキから学んだトリックアートを使った芸術をウォール街の大きな壁に存分に描きこんだ。

 そんなある日のことだった。


「おじいちゃん!?」


 雪が、いつものようにウォール街から帰ってきたある日だった。絵はもう完成を待ち構えるようにした日の出来事。大吾郎が倒れたのだ。大吾郎はマキと共に二階の作業部屋での作業中に急に倒れたのだという。声をかけると返事は返せるのだが、ベットからはほとんど起き上がれなくなってしまった。

 それから、雪は何日もウォール街にはいかずに、大吾郎の世話をした。大吾郎の体調は良い悪いといった話ではなく、ただ単純に体にボロが出るように、立ち上がれなくなったのだ。雪は柚子と陸に事情をはなし、少しだけ待ってもらう様に頼んだ。

 もちろん、大吾郎もマキも、気にせずに、町を出るといいと言ってくれたのだが、それは少し難しいように思えたのだ。マキ一人で大吾郎の世話をするとなると、かなりの重労働だ。子供ながらにそれを察した少女はなかなか決断できずに、それから何日も同じ時間を過ごした。

 そして、気晴らしに海辺の砂浜に腰を下ろした時だった。


「雪ちゃん」

「あ……リス君」


 日暮れ時の海辺は特に、一日を反省するのにぴったりの時間帯だ。波の音、風の音、塩の香り、そしてその中に微かに香る太陽の香り。

 リスは、いつものようにウォール街の自分の作品を描き終えて、大吾郎の見舞いに来たのだといった。


「ありがとう。けど、おじいちゃん、きっと良くならないわ」

「どうして?」

「自分で言ってたの。これは病気とかじゃなくて、歳のせいなんだって。みんな歳には勝てないんだって」

「そっか……」


 海辺ではさざ波の音が、まるで自分の心を蝕むように身を縮こませた。海は、その時の胸中をいつも見透かすようだ。


「町に残るの?」


 陸は気になったことを心配そうに訊いた。雪はそれを少しだけ考え込んで答えた。


「わかんない……」

「何を迷っているの?」

「それは……町は出たいけど、おじいちゃんを、マキおばさんだけに任せておけないからよ」

「そっか……」


 陸はその答えで満足したのか、それ以上は雪を追い込むことはなく、ただ、二人して海をぼーっとした様子で眺めた。

 そして、ふっと陸は立ち上がり言った。


「行っておいでよ」


 陸はさっきの少女の言ったことがあまりわかってなかったのか、強い口調で言った。


「そんな簡単に言わないでよ」

「簡単じゃないよ。雪ちゃんは行きたいんでしょ。なんで行きたいの?」

「それは……ここにずっといても、いつまでも変わらないままだからよ。雪はもっと絵を見てもらいたいの。

 もしかするとお父さんやお母さん、お姉ちゃんにも会えるかもしれない。

 それに、マウスも変わったんだもん。雪も変わらなくちゃって思ったの」

「じゃあ、なおさら行かなくちゃ」

「だから、おじいちゃんが心配なの」


 静かな海辺に大きな声が轟いた。その轟と同時に会話が途切れると一瞬で静寂が二人を包んだ。


「僕がおじいちゃんを見るよ。マキおばさんのお手伝いをするよ。だから……安心して行っておいでよ」


 雪は驚いた様子でしばらく陸の瞳を見た。


「どうしてそこまでしてくれるの?」

「へへへ。僕も福に負けたくなかったし、雪ちゃんについていきたかったけど、いいんだ。僕はこの町が好きだし、まだまだ、マキおばさんに教えてもらう事もあるから」


 静寂の独特な闇はいつの間にか感じなくなったが、今度は陸の優しさが少女の心を締め付けた。

 しばらくして、雪もその場に立ち上がり、陸の方を向いてその体をぎゅっと包んだ。なぜそうしたのかは陸にはもちろん、少女自身もわからなかった。けれど、そうすることがいいのだと感じた。陸の体は硬直して石のように動かなかったが、ちょっとの間、そうしていると、陸も腕を少女の背中に回した。そうすることが正しいことなのだと、少年は思ったのだ。


「ありがとう」


 少女は鼻を啜りながらそういった。少女よりも少しだけ小さな少年。その少年のえりの部分は少しだけ湿ったが、温かく、それが何よりも少年の理性を保たせた。

 少年も本音を言えば、雪についていきたかった。それはもちろん芸術の追及であったり、挑戦であったりだが、本当のところ、全く別の理由で、陸は雪についていきたかったのだ。それは好きだから。

 本当は伝えたい想い。もしも少年が町に残って大吾郎の世話をかって出なければ、これからも雪と一緒にいられたはずだ。けれどそうしなかったのは、本当に少女の幸せを願っていたからだ。


「決まりだね。そうと決まれば、絵を完成させなくちゃ」


 体を離した陸はそういった。


「うん! あれ、リス君、顔が赤いよ?」

「え、あ、そんなことないよ」


 陸はフードをいつものように深く被って顔を隠してしまった。

 そして雪は、少年の手を掴んで砂浜を駆けて、海を背にした。


 *


 雪が芸術の町を旅経つ日。その日もいつものように訪れた。空には雨雲が今にも雨を降らしそうであった。


「雪や」

「何おじいちゃん?」

「体調だけは気を付けるんだよ」

「大丈夫よ。雪、病気なんてしたことないもの。それより、おじいちゃんも無理しちゃダメよ」

「おじいちゃんは大丈夫だよ。こうして毎日ベットの上でゆっくりするよ。たまにコニーの相手をしてやるよ」

「うん。コニーのこともよろしくね。雪も、たまには町に戻るから」

「立派になって戻ってきなさい。それが、おじいちゃんたちの願いだ」


 大吾郎はマキの想いも一緒に伝えた。その顔はいつものようにぶきっちょ面ではなくて、穏やかな顔だった。大吾郎がマウスとの約束を果たして、しっかりとマキと話して、ようやく昔のように一緒に暮らすことができたからか。今では、これまでにないくらいに幸せな顔がにじみ出ているようだった。

 雪は最後に大吾郎の胸にゆっくりと抱き着いた。


「今まで本当にありがとう。おじいちゃんがいたから、雪、楽しかったよ」


 大吾郎は無言でその小さな頭を撫でた。長くてサラリとした髪の毛が指と指の間に絡まって、スッと溶けていくような感じがした。


「元気でな……」

「――――うん」


 大吾郎のベットのある寝室を後にすると、そこにはマキと陸、それにコニーもいた。コニーは部屋から出てきた少女に駆け寄って、いつものようにその雪の周りを回りじゃれ合おうとねだった。すると、陸が少女に甘えようとするコニーの頭を撫でて、落ち着かせた。今では陸のいう事を一番聞くかもしれない。その場でじっと、大きな尻尾をゆらゆらとさせた。


「コニー。リス君の事を頼んだよ」

「雪ちゃん、違うよ。僕がコニーの世話をするんだよ」

「ふふふ、そうだね。もうリス君はしっかり者だもんね」

「うん。みんなのこと、任せてよ」

「頼もしい」


 陸は少し照れて、そっぽを向いた。そして、コニーの頭を撫でる少女に言った。


「お別れだね」

「うん。……リス君。本当にいいの?」

「うん。僕はこの町に残るよ」


 お別れの際、雪は最後にもう一度、少年に抱き着いた。今度のそれは、とても寂しく感じられた。


「たまには、この町にも帰ってきてね」

「うん。雪、この町が好きだから必ず戻るわ」

「約束だよ」

「うん、約束。待っててね」

「勿論だよ」


 そして、そばにいたマキも、その二人を包んだ。


「雪ちゃん。ユズお姉さんのことをしっかり聞くのよ。それと、こっちのことは何も心配しなくてもいいわ。やりたいことを、全力でやりなさい」

「マキおばさん……雪、頑張るね」

「えぇ」


 家の外に出ると、そこには雪のことを迎えに来た柚子の姿があった。

 少女はその手を握ると、見送りをしてくれるマキや陸、コニーに向かって手を降った。


 その日の午後。町には、週に一度の雨が降った。ウォール街の壁の絵は十年の歳月をかけて、やっと完成した。その絵は家族で描きあげられた絵。町の誰もがその絵のことを知っている。雪とその家族が描きあげた作品。その絵はこの町にずっと残ることになる。

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