7 隣の町

「待ってよ」

「なんでだよ」


 陸の標的は福一択であった。雪はそんな二人で走り回る姿を構図を切り取る様に両手で四角を作り目を細める。何でもない世界。

 よくおじいちゃんは言う。子供は自由に生きなさいと。雪は自分のことを子供だとは思っていない。けれど、普通の子供がするような遊びは素敵だと思う。空っぽの心の器が満たされていくような。次第に溢れ出す。

 大吾郎にそれを話した時には、大人になるとそれがなかなか感じれなくなるのだと言っていた。少女はそんなの可笑しいと思った。だって人は檻になんかには入っていなくて誰もが自由だから。楽しもうとすれば誰だって楽しめるし、やりたいことをすれば心は満たされる。それなのに、様々なことで溢れるこの世界で心を満たせなく、ましてや、やりたいことが見つからないとは、少女にとっては不可思議としか言いようがない。

 走り回っていた二人はとうとう息を切らしてこちらに向かってきた。雪の前で足を止めると二人して砂浜に倒れこんだ。


「もー二人だけで楽しまないでよ」


 鬼役の陸は言い訳するように口をごもごもと動かしていた。けれど普段冷静な福が息を切らした姿はとても人間らしさを感じられて、少女は嬉しかった。

 太陽が西に傾くころには三人でマキおばさんの家に向かい、ウッドデッキに座り、マキが透明なグラスに注いだサイダーを仲良く飲んだ。その液体はまるでマグマのようにぷくぷくとして口に含むと舌を刺激する。そんな魅力ある飲み物をいつまでも口に含んでいたかったが、それをすると実に残念な気持ちになっていく。例えるなら、夜のこない一日であったり、昼の来ない一日。世界にはそんな場所があるのだと聞いたことがある。白夜だったり極夜。一見どちらも素敵に思うのだが、きっとそんな場所で生活をしていたら、寂しくて寂しくて仕方がなくなるだろう。雪は残りのサイダーを誰よりも早く口に含むと同時に喉を通した。清々しい程にさっぱりとして気分が良い。サイダーのようになりたいと思った。


 雪はそれから何日も頭を悩ませた。そんなときに大吾郎はいつもの調子で言った。


「絵を描くのをやめなさい」


 雪は信じられないといったように目を丸くした。そして座っていた椅子から立ち上がり、驚くほどに感情がこもったように声が出た。


「どうしてよ」


 雪の言葉に感情が籠るのも無理はない。生まれたころから当たり前のように触れてきた絵。大吾郎だって少女が絵を描くのが嬉しかったはずだ。それなのに。と少女は思ったのだ。

 そんな感情が溢れた雪に一瞬、よろめくような表情になったが、お得意の間で語りだした。


「雪はどうして絵を描いているんだい?」

「好きだからよ」

「どうして好きなんだい?」

「楽しいからよ」

「今も?」

「……」


 雪は考えることをせずにただ、開きっぱなしの蛇口のように言葉が出ている自分に気が付いてその場に立ち尽くしてしまった。

 おじいちゃんはズルい。けれど、必ず正しい方向に導く。

 そして雪に大吾郎は優しく話す。


「誰だって、悩んでもダメなときはダメなものだよ。そんなときは一度それから離れればいい。気が付けば悩みも一緒に離れるよ」


 雪は大吾郎に抱き着いた。いつも着ている白いヨレヨレの長袖シャツは大吾郎の優しい香り。それはいい匂いでもないし、もちろん臭いわけでもない。ただ心地いい香り。もしも大吾郎が父親であったのならば、こんな香りがしたのだろうと思った。強く抱きしめれば大きくてインクで汚れた硬い手が髪を撫でた。それは温かくて、割れ者でも扱うように優しい手。

 その夜は大吾郎のベットで一緒に眠った。いつも一人で眠る分、それはとても特別であった。当たり前であったりする日常を特別に感じられるのは良いことだ。悲しくなんかはない。その代わり、その特別な時間はあっという間だ。

 少女は普段感じることのない、人の温もりで安心するかのように一日に終わりを告げた。おやすみなさい。


「おやすみ」


***


 雪が出会った男は町の変わり者であった。


「お嬢ちゃんは僕をどう思う?」


 人を見かけで判断してはいけないとは教えられてた少女であるが、その姿を見れば、正直、不の感情が出るのは口に出さなくても彼女の場合は顔に出る。


「あまり良い気持ちはしないわ」

「お嬢ちゃんは正直だ」


 その男の見た目では確かに疑いたくなるような気持ちが出るが、その最後に見せた笑顔は多くの大人より良いものだった。

 少女がその男と出会ったのは、らくがきの町の隣の町。隣町といえどそう離れてはいない。

 大吾郎に言われるまま、自ら絵に触れるのを控えていた最中の事。気分転換がてらに一人で朝早くに家を出発し、こうして知らない町を歩いている最中のことだった。


「あなたの名前はなんていうの? 私は雪よ」

「名前なんて必要ないよ」

「どうして? 自己紹介の名前は必要なことよ」

「きっと教えてもお嬢ちゃんは忘れてしまうからだよ」

「そんなことないわ」


 なぜだか雪はその異常ともいえる身なりの男に興味を持ってしまっていた。それはほかの大人とは違っていたから。周りのほとんどは同じ服を着ていて、さもそれが当たり前のように威張ったような顔つきで、座り込む男を一瞥し通り過ぎる。そんな雰囲気が嫌で、少女は男に話しかけたのだ。

 その後少しだけ男に説得してようやく男は名前を教えてくれた。


「マウスだ」

「ミッキーマウスのご家族かしら」

「あれは非現実的なキャラクターだね。僕が言っているのは茶色いキャラクターだ。着飾ってないのが好きなんだ」

「よくわからないわ」

「世の中の会話のほとんどがそんなものだよ」

「確かにそれはそうかも」

「お嬢ちゃんは賢いね」

「私の名前は雪よ」

「お嬢ちゃんはお嬢ちゃんだよ。名前に執着したくはない」

「マウスは変わっているのね」

「そんなことはないさ」


 少女は男の名前がマウスだという事は勿論、嘘だという事を理解している。けれど、彼のいう通り、名前は重要でないと思って、男の名前をマウスという名前で呼ぶことにした。

 それから少女は男の隣に座って通行人を眺めながら会話をした。それはとても大切なお話。マウスの子供のころのお話であったり、家族の話に好きな人の話。

 その男は、他の大人とは違ってとても居心地がよかった。今まで話してきた大人たちは何とも言い難い会話を好む。例えば、スケッチブックに絵を描いていたら、この部分がとても良い、ここはダメだ、こうした方がいい。

 彼女が絵を描くのは誰かの為ではないのに、それなのに周りの大人は自分勝手に染めてくる。そんな大人たちを雪は大らかな心で対応した。

 

「そろそろ時間だ」


 マウスがそういうと、重い腰を起こした。何処に行くのと、少女がたずねると、パン屋さんと言った。

 少し歩いたところに彼の言うパン屋があった。けれど、二人が立っているのはパン屋の入り口ではない。その裏口の扉。

 コン、コンコン。コン、コンコン。コン、コンコン。

 一定のリズムで三回。扉をノックした。しばらくするとガチャリと銀色のドアノブが四分の一ほど回り、扉が開かれるとほぼ同時にパンの香りがふわりとした。


「あら、遅かったわね」

「やぁ」


 出てきた女性は、大きな袋に大量に入った食パンの耳をマウスに渡した。そして雪に気が付くと尋ねた。


「その子は?」

「そこでついてきた」

「こんにちは。どこの子?」


 少女は元気よく答えると、女性はあぁ。と言った風に笑顔になり、素敵な町の子ね。と付け足した。

 そして雪の頭を撫でると、男にだけ聞こえる声でヒソヒソと話した。少女はそんなヒソヒソがよくないヒソヒソだという事は分かった。それは男の顔を見ればわかる。

 会話が終わった後はちょっと待っててと言い、建物に入ると数分で戻ってきた。

 袋の中には便に入った牛乳二本に、メロンパンが一つ入っていた。


「メロンパンは雪ちゃんの分だからね」

「僕には耳があるから」

「幸せ者ね」

「あぁ」


 パン屋のお姉さんにお礼を言うと店を後にした。マウスはというと、歩きながら、子供っていいな。と誰に言うでもなくぶつぶつ呟いていた。

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