6 海のある町
雪はあれから何回もデッサンに励んだが、やはり結果は同じであった。大吾郎からは時間が経てば思い出すと、なんとも曖昧なアドバイスをくれたが、雪にしてみれば、その時間というものはとてつもなく長い。十歳の少女の感じる時間と、大吾郎の感じる時間の経過は同じであって違う。
そして数日経ったある日。雪はマキの家にいた。
「雪ちゃん、そろそろだよ」
「そろそろ?」
マキはそういうと、家の外に雪を連れ出した。
朝から雲が出ていて、なんだか少し雲行きが怪しかったが、それはもう今にも降り出しそうである。
「なんでマキおばさんは分かるの?」
雪は今日、予めマキに呼ばれていた。それは雨が降るのを知っていたからである。
「一週間に一度は降るんだよ」
雪はそんなことを考えたこともなくて、驚いた。
マキのいう通り、この町では一週間に一度。ほぼ決まって雨が降る。そして当然のこと、雪は尋ねる。
「どうして?」
「空のお仕事だからだよ」
「お仕事?」
「そうだよ。雨が降り終わったら、同じだけ水が空に向かうんだ」
「そんなにたくさん⁉」
「えぇ、そうよ。それが太陽のお仕事」
雪はお仕事という言葉で何となく理解できた。
そして次第に空は黒くなり、ぽつりぽつりと滴が手のひらに落ちた。次第にその滴は道に斑点を作る様に。それをさらになかったように辺りを一面濡らした。マキがさし出してくれた傘は大人用のビニール傘だった。
「ごめんなさいね。これしかないから」
「ありがとう」
雪はその傘を受け取ると、傘をくるくるとしながら水滴を散らした。
ポツリポツリとビニールを弾く音が大地の演奏のようで心地良い。見上げれば、遥か彼方から延々と途切れることなく雨は降り続き、雨の根源を探すが見当たらなかったが、雪はそのビニール傘を気に入った。周りの子供が持っているカラフルな赤や青や黄色や緑の傘には比べ物にならないほどに素敵だ。
雪は久しぶりに正しい笑みを浮かべた。
「雪ちゃん、ごらんなさい」
そういうと、マキの家の外壁に描かれた落書きを指さした。
落書きは雨の水を受けて少しずつ滲みながら落ちていく。雪はその光景は何度も見てきたが、初めての間隔に襲われたようだった。
「マキおばさん。なんだかね、ここがね……」
雪は自分の胸にぎゅっと拳を当ててマキの顔を見上げた。
「ツーンとするのかい?」
雪は大きく首を振った。
「ツーンより……もっと……なんだか悲しいの」
「どうして?」
「だって、だって、これが、私が描いた最後の絵だもの……」
マキは少女のスランプを聴いていたが、なんだか胸が苦しくなった。
「しっかりと、雪ちゃんの描いた落書きを忘れないようにしなさい」
マキには今はそれしか言えなかった。
雪はそれ以上なにも話すことはなかったけれど、マキがさらに語気を強める様に言った。
「誰だって、一度描いた絵と同じ絵は二度と描けないわ」
段々と雨に当たる壁の絵は薄れていき、次第に消えていった。
***
「そろそろ戻りましょうか」
マキの声で我に返った。気が付けば、壁の絵はとっくに消え去っていた。マキに続くように家に入ると、戻ってくるのに待ちくたびれたコニーが飛び跳ねて出迎えてくれた。そんなことで雪の心にあった悲しみも、少しは紛れた。
「雪ちゃん、ココア飲む?」
心配するように尋ねると、雪は元気よく頷いた。マキは手慣れた手つきで鍋にココアパウダーを入れて火をかけて煎る。それを泡立て器でカシャカシャと音を立てて混ぜる音が聞こえた。
数分すると、おしゃれなマグカップがテーブルに置かれた。
雪がお礼を言うと、一口飲み、それを見ていたマキは、どう? という様に雪を見た。
「おじいちゃんのココアとおんなじ味」
雪は満面の笑みで答えた。
本当はマキの作ってくれたココアの方が少し美味しいようにも感じたのだが、雪は自分のために一生懸命作ってくれたおじいちゃんを考慮しての言葉だった。
「おじいちゃんも、ココア作ってくれるの?」
「時々ね」
雪は微笑みながら、また一口飲み、一緒に出されたマキ手作りのクッキーもかじると、また笑顔がこぼれた。
「マキおばさんが、雪のお母さんだったらいいのに」
雪が自然と出た言葉は、雪自身を驚かせた。
それを聴いたマキも、様子を窺うようにしている。
「マキおばさんの料理はとても美味しいわ」
雪は何事もなかったようにそういうと、またクッキーを一つ口に運んで、ココアを啜った。
雪は両親の顔を知らない。大吾郎からはこの町にはいないとだけ告げられて以来、雪は両親にいつか会えるのだと信じている。
けれど、寂しくはない。雪には大吾郎もいれば、ここに来れば、マキもコニーだっている。そして少ないながらにも友達もいる。
いつか会えればと心の底で想っていた。
家に帰ると大吾郎がいつものように夕食の支度をしていた。夕食といってもそれは質素なもので、今日はかぼちゃと玉ねぎを使ったスープがメインであった。
「雪、牛乳をとっておくれ」
大吾郎は料理が苦手だ。ずっと昔から、大吾郎の手作りの料理を食べているが、それは見ていればわかる。けれど、雪はそんな大吾郎の料理に不満を抱いたことがない。
鍋で炒められ、小麦色になった玉ねぎに、水や醤油や砂糖を入れて、かぼちゃが柔らかくなるまで煮込んでいく。それらの香ばしいような野菜の香りが部屋いっぱいに広がって、雪は体全体で息を吸う。
平凡な幸せの香り。
かぼちゃが溶けるように柔らかくなったら、潰して牛乳を加える。大吾郎も雪も、料理の分量は分からない為、牛乳を入れる量はスープの色を見ながらの大雑把な目安で注いでいき、雪は慣れた手つきでお玉でスープを混ぜて、味見をした。
「上出来!」
雪の言葉に、大吾郎は優しく頷き、木の器にスープを入れた。それに加えていつものように中皿に手でちぎったフランスパンを置き、準備は終わった。
そして食事にありつきながら、雪はいつものように一日の話をした。
あのあと結局マキの家でゆっくりくつろぎ、マキに傘を借りて、雨の中をスキップしたり、水たまりに入ったりしながら帰った。雪はそんな些細なことで今の悩みをかき消すことが出来た。
「それでね、壁の絵はあっという間に消えちゃったの!」
「そうかい。それでどう感じた?」
「それは勿論、悲しかったけれど、同時に何だかかすっきりもしたわ!」
雪は自分の悩みを忘れるように、無我夢中であの感動を伝えていた。
そして一通りの話を終えると大吾郎は言った。
「そうかい。きっともっといい絵が描けるよ」
雪はその言葉に、何も言えずに固まってしまったが、小さく頷いた。
次の日、雪はウォール街で陸と福と待ち合わせをした。昨日の雨はあがっていて、町中の壁の落書きはきれいさっぱり消えてしまっていた。
「雪ちゃん、こんにちは」
最初に雪の前に現れたのは陸であった。陸は最初の一言目はなぜか照れた様子で挨拶するのがお決まりだ。今日も、挨拶した後、フードを目元まで下し、目を合わせない。
「やぁ、雪ちゃん」
「こんにちは、フクロウ君」
その後すぐに福は現れた。それぞれ自分のスケッチブックとえんぴつにカッターナイフを持ち、三人は海に向かった。
「雪ちゃん、あれから調子はどう?」
「まぁまぁかな」
雪は無理に笑ってそう答えると、陸は、それはよかった、と雪の言葉をそのまま信じて安心した様子だった。
海に着くと三人は持っていた物を砂浜に置き、サンダルを脱いで裸足になった。
「きもちいね!」
雨の降った後の砂浜はまだ乾ききっていなくて、少し湿っている。けれど、その砂が足裏をひんやりと包みこむようにして沈む。その感覚がなんとも言い難いが、要するに気持ちがいいのだ。
雪が砂浜を駆けると、それを追う様に陸はついて走り、福は歩きながら二人を後ろから追った。
しばらくすると、雪は鬼ごっこを提案した。それは限られた遊びの中の一つ。
二人は断ることはなく、じゃんけんすると一斉に走り出した。鬼は陸だった。
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