5 変わらない町

 雪は家に帰り、食事時に大吾郎と向き合い、今日の一日を話した。大吾郎は特にその話に合図地をうつことなく、質素な飯に箸をつける。

 それでも、少女は大吾郎に一生懸命に今日あったことを伝える。


「おじいちゃんはどう思う?」


 話を聴いていた大吾郎だったが、考え事をしていたのか、その質問でやっと意識を戻した。


「すまない、何だったっけ?」

「もぉ~おじいちゃん、ちゃんと聴いてよ。だから、今日、フクロウ君が言ったこと」

「フクロウ君……福君のことかい?」

「そう、どう思う?」

「そうだね。おじいさんも、マキおばさんと同じで、福君はそんなことを心から思ってないと思うよ」


 そっか、と答えテーブルの下で、足をぷらぷらとさせて考える。


「雪」


 いつものように、大吾郎は雪の名前をピシッとした口調で呼び、姿勢を正した。


「もう一度、福君と話してみなさい」

「うん。わかったわ」


 少女はそう答えたが、なかなか福に会う勇気は出なかった。そして、雪に困ったことが起きた。


 次の日。雪はいつものように家を出た。目的地はウォール街。いつもと違うのは持ち物。スケッチブックにえんぴつにカッターナイフ。

 雪は福に言われたのをまだ少し気にしていて練習しようと思ったのだ。

 画題は昨日、福に指摘されたウォール街の風景。自分なりに描いて練習しようと思った。

 えんぴつに親指を当て、片目を閉じる。そして対象物の長さを測るのだが、雪は勿論、その手法で長さを図ることはできない。ただ、何となくで、街の画家がやっていたのを真似してみたくなったのだ。

 そしていつもとは違い、意識して町をスケッチブックにデッサンしていく。けれど可笑しなことが起きた。

 雪は描けなかった。というよりわからなかった。


「やぁ、雪ちゃん、固まっちゃってどうしたの?」

「あら、こんにちは、リス君。別に何でもないわ」


 丁度通りかかった陸にそういうのだが、動揺している雪は顔を見ればわかった。


「絵を描いているんだね。まだ描き始めてないようだけど……」


 何かを察して陸は心配そうに言った。

 そんな雪はそれ以上話を聴いていなくて、何度も何度もえんぴつの先をスケッチブックに当てて、小さな黒い点がいくつもついていた。

 そんな姿を見た陸は雪の肩をポンと叩くと、雪はハッとした表情を浮かべた。


「どうしよ、どうやって書くのかわからない……」

「どういうこと……?」


 陸がその質問をするのは当然である。いつもの雪は描きたいものを好きなように表現していて、完成する絵は人並み外れていたのだから。

 雪の顔の神経は小刻みに震えるようで、雪の初めて見る顔に陸は動揺した。


「雪ちゃん、なんだか変だよ。落ち着いて」

「大丈夫、落ち着いているわ……ただ何だかおかしいの」


 何の変哲もない一日で、いつものように晴れた日。いつものように太陽は町を照らして、いつものように、朝起きて、朝ごはんを食べて、いつものように――。

 陸は雪の持っていたスケッチブックを強引に閉じると、雪の顔を両手で引っ張った。


「痛い痛い、痛いってば」

「ごめん……だってなんか様子が変だから……」


 陸はいつもの雪の調子を取り戻してほしくての一心での行動だった。けれど、その動揺を変えることが出来なかった。

 雪はその後、スケッチブックに向かう事もなく、いつものように絵を見ることもなく家に帰った。


 目が覚めると、真夜中だった。

 あの後、雪は家に帰るなり、ワンピースを脱いで寝巻に着替えて、寝袋に入った。最初は大吾郎の心配する声が聞こえたのだが、雪は返事をすることなく、気が付けば眠っていた。

 ベッドで眠る大吾郎を見れば、晩御飯も終わったことには気が付いた。けれど、真っ先に頭に浮かんだことは、今日の出来事であった。

 雪は寝袋から出ると、寝巻のまま寝室であり仕事部屋である暗い部屋を出た。

 帰ってきたときに置いたスケッチブックとえんぴつやらはそのままテーブルに置かれていて、雪は椅子に座るとスケッチブックを開いた。

 そこには昼間、自分が描いた点々が無数にあり、少しのため息を吐いた。

 そしてえんぴつを手に取ると、テーブルの中央のフルーツの載ったかごのデッサンを始めた。

 けれど、やっぱりどうすればいいのかわからずに、さらに無数の点々だけが増えていくだけ。

 そんな時に扉が開いた。


「目が覚めたかい」

「うん……」

「元気がないようだね。話してごらん」


 大吾郎はゆっくりと近寄ると部屋の明かりをつけた。

 その明かりとは対照的に沈む雪に対し、大吾郎はごそごそと台所下から鍋を取り出した。鍋の中に缶に入ったココアパウダーを数杯いれ火をかけて煎る。たちまち小さな部屋にはココアの香りが広がり、冷蔵庫からだしたミルクを少しずつ鍋に入れて不慣れな手つきでココアをかき混ぜていた。

 しばらくすると、コップに入ったココアと浅皿にポンと置かれた手でちぎったフランスパンがテーブルに置かれた。

 雪はお昼から何も食べていなかったため、そんな簡素な食事をでも勢いよく頬張った。

 ココアの味はとてもまろやかで、マキさんの家で飲むものとよく似ていた。


「雪、なにかあったのかい?」


 大吾郎は雪が一息つくのを見図るように、声をかけた。そんな雪は一呼吸置くと大吾郎に今日の出来事を話した。


「今日ね、絵を練習しようと思ったの」


 大吾郎は真剣に頷くと、続きに耳を傾けた。


「けれど、描けなかったの」

「どうしてだい?」

「描き方が分からなくなったの。だからなにから描けばいいのかって迷ったりして、なかなか描き出せなくて……」


 雪の曖昧な話に、大吾郎は真面目に頷くと、大きく鼻から息を出して、いつものように間を開けた。けれど、いつになっても間を切ることがなくて、雪から声をかけた。


「おじいちゃん……?」


 すると大吾郎は慌てた様子で我に返ると、口を開いた。


「誰にでもそんなときがあるんだよ」

「誰にでも?」


 雪はそんな曖昧な答えに納得がいかなかった。そしてまた大吾郎は口を開いた。


「悩む時は成長の証なんだよ。だから、解決した時には答えが出る。まずは描き出さないと始まらないよ」


 雪はそういわれ、思い切ってテーブルの上のフルーツのデッサンを始めた。

 けれど、やっぱりうまくはいかなかった。その絵は見るからに十歳の絵。普通ならそれで十分なのだが、雪が今まで描いていた絵に比べれば、それははっきり言って比べ物にならない言わば下手なもの。

 雪は鉛筆とスケッチブックをテーブルに置くとしょんぼりと下を向いた。


「もぉ、前みたいに絵を描ける気がしない。どうやって描いてたのかもわからない……」


 雪は瞼を潤ました。

 大吾郎はなんと声をかけていいかわからずに、雪に近づくと何も言わずに頭を撫でた。

 窓から覗く三日月でもなく、上弦の月でもない、名前のない月の明かりが何だか可哀そうで、自分を見ているようであった。


 その日の朝。雪はその後眠ることなく太陽の姿を迎えた。太陽は毎朝訪れる。そんな太陽が羨ましいと思った。

 いつもどおりにやってくる朝。自分にもいつも通りの朝が来るはずだったのに、いつの間にかそのいつもの朝は違った朝になっていた。

 調子がいいとは決して言えないが、いつもの一日にするべく、寝巻の大き目のシャツを脱ぎ、真っ白のワンピースに着替えると、いつものように食パンをトースターにセットし、顔を洗い、歯を磨いた。

 チーン、という音で無意識になっていたのを感じさせ、蛇口を閉め、トースターから食パンを出してテーブルに置いた。


「雪、今日は掃除をしよう」


 大吾郎はいつものように話しかけるが、雪の調子が悪いのを感じ心配していた。


「雪?」

「あぁ。ごめんなさい」


 大吾郎が名前を呼びかけると、雪はどこかから戻ってくるように返事をした。

 朝ごはんを食べた後は、大吾郎が話した通り、いつものように部屋の掃除をした。

 けれど、雪は楽しむことを忘れて、ずっと同じ場所を何度も磨いていた。


「雪。大切なことを忘れているよ」

「え……あ……そうだったね」


 雪は我に返ると、考えるのをやめるかのように、楽しい話をした。大吾郎はその姿を見るのが何だか辛いようだったが今はそっと見守ってやるしか方法はないようで、雪の話を聴きながら、いつものようにピンクの布がいくつもついたハタキを震わした。

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