らくがきの町

ライオン

1 芸術を愛する町

「雪、よく聞きなさい」

「なに? おじいちゃん」


 きまって真っ白のワンピースを着た十歳の雪はキッチンから運んできたチャペルチェアに足をぶら下げ遊ばせながらも上半身は異様に集中している。スケッチブックに顔を向け、色付きの鉛筆を器用に扱い父方の親である、つまりは少女の叔父にあたる大吾郎の絵を丁寧に描いている最中である。


 そして雪は返事をするものの聞く耳を立てている訳ではない。大吾郎はそれを知りながら仕事部屋の古びたロッキングチェアに揺られ、目を瞑ったまま会話に何とも言えない間を作り出す。


 この町ではだれもが芸術を愛している。その為、この町で産まれる子は赤ん坊の頃から芸術に浸り雪のようにいつの間にか芸術の虜になる。たとえ芸術に興味がない親から産まれようとも然り、廃れた町に産まれようとも。この町に限っては芸術は平等にある。それがこの町の良さだということは誰もが知っている。


 そうしてようやく大吾郎は妙に長かった間をやっとのこと終わらせ語り出した。


「もう十歳だ、この町では芸術家の一人として認められる」


 雪はそんな話どころではなく、色鉛筆を取っ換え引っ換えして手を忙しく動かす。生まれつきそうなのだ。一点に集中すると周りのことはみえなくなる。せわしくする雪をみて大吾郎は優しく声をかけると彼女は驚いた様子で顔を上げた。


「雪も立派な芸術家の一人だよ」


「本当に?」


 この町で芸術家としてのルールがいくつか存在する。その一つが年齢だ。芸術において(少なくとも芸術において)は年齢は関係はない。

 しかし、ルールがあるからこそ、そこには感覚的にとでも言うべきか、出来上がった町の成り立ちがある。一度出来上がったレールに、運命に沿って町はあるべきところへ。運命はなにも人だけの言葉ではない。


 十歳と言うとまだまだ子供だと思うところ。この町では十歳を目処に様々なことが認められる。といえど、そこにもまた漠然としたルールがいくつかあり面倒なのだが、とにかく、十歳になると一人の芸術家として認められ様々なことが許されるため喜ばしいことなのだ。


 それはこの町の十歳の子供たちにとって待ちに待った日。例えばいつか現れるであろう運命の人が訪れるみたいに、非現実が現実として訪れるのだ。


「雪も壁に絵を描きたい」


 この町では子供たちの誰もがいつしかそう願う。その願いが雪には叶えられる年なのだ。少女の要求は至極当然。まるでリンゴの実が木から落ちるのと同じくらいに。その木はリンゴができたのだからリンゴの木なのだというくらいに。あるいは。


 大吾郎は少女の発した言葉に特に反応することなく、部屋は壁に掛けられた時計の秒針だけが空間を行き来した。大吾郎がこうなのはいつもの事。少女は気にすることなく今度は色鉛筆をナイフで削り出した。


「おじいちゃんの頭は真っ白だから難しいね」


 大吾郎は相変わらず椅子を一定のリズムで体を前に後ろにする為、天井からぶら下がるペンダントライトによって映し出される影が椅子の前後と同じようにリズムを刻む。ライトの周りには何匹かの虫が飛び回り光を求める。


「雪、そろそろ眠ろう」

「うん、あと少しだから」


 そう言いながらも雪の手は止まることはない。その彼女の肌は透き通るように白い。そしてか細い。聞こえはいいがそれは健康体ではない証拠なのである。


 大吾郎は雪が絵を描き終えるまでそのまま椅子から立ち上がらず、じっと一点を見つめるかのように、目を閉じて雪を待った。やっとのこと手を休めると同じくして完成させた絵の中の人物は、とても貧相な格好。白いヨレヨレの長袖シャツにアイボリー色のズボンだ。観るからに貧相なのだがそれが事実。

 しかしよく見ると彼女が描いた絵の人物には特徴がある。

 それは滅多に見せない顔であり、彼女の一番好きな顔である。


 少女はひょいと椅子から降り大吾郎に近づくとビリっとスケッチブックから引きはがすように破り、作品を大吾郎に渡した。

 上出来よ。

 少女は寝間着である下半身も隠れるくらい長くて大きめのシャツに着替えると彼女は大吾郎におやすみ、と一言いい寝袋に収まった。


 雪が目を覚ました時には大吾郎は朝ごはんの準備をしている。その騒がしさと匂いとで目覚めたと同時にワクワクする。

 けれど、朝ご飯はいつも決まって目玉焼きにソーセージ三つに牛乳、それとトースト。


「おはようおじいちゃん」

「おはよう雪」


 そして雪の仕事はトースターに食パンをセットすること。チーンと音がする頃には歯を磨き、顔を洗い終えている。


 テーブルには大吾郎の作った貧相だが温かな料理が置かれ、雪が食パンにせっせとバターを塗る。小さな部屋には幸せが匂いと重なって広がるかのよう。その空間は目に見えるほどに温かい。いただきますを言うと二人はバターの染み込んだトーストをかじった。シャクという軽快な咀嚼音は朝を感じさせるようで雪はその音が好きだ。


「チョークをあげよう」


 大吾郎はそう言いながら珈琲を啜る。


「いいの!?」


 少女の目は輝きを放っている。大吾郎は、あぁ、と頷くと、ご飯を食べった後でね、と付け加えた。


 ご飯を食べ終わった後の後片付けは彼女の仕事。ほんの少しだけ洗剤を付けて白い皿についた油を落とす。少女はそれが嫌いではない。それをすると心も綺麗になるからだ。しかし今朝に限ってはあくまで平然を装い、ただ、いつもと同じようにふるまう。


 洗い物を終えた少女はまた歯を磨き、それが終わると長くて大きめのシャツを脱ぎいつもの真っ白のワンピースを頭から被って出来上がり。少女の着替えはたったそれだけ。簡単である。

 そして雪は大吾郎の仕事部屋に入った。大五郎はいつものようにロッキングチェアに座り本を読んでいる。

 少女が終わったよと嬉しさを隠して言うと大吾郎は引き出しから五色のチョークの入ったケースを雪に渡した。


「いいかい、町のルールはもうわかっているね?」

「えぇ、もちろんよ」


 大吾郎は確かめるようにルールを聞いた。


「名前を書くのと、自分勝手にならないことよね」


 少女は嬉しそうに答えた。


 本当はルールはいくつもある。落ちないものはダメだったり壁に描いてもいいからと言って許可なく落書きすることは暗黙のルールとして存在していたり、それはいろいろと。

 けれど、大吾郎は少女が言った二つだけを気をつけさせた。それだけ覚えておけば悪い方向には行かないと考えているからだ。

 少女はさも外に出たい感情を抑えるようにしているが全ては顔に出ている。本人は感情が顔に出やすいことを知らないようだ。

 少女は大吾郎に、いっておいで、と言われると足首から膝や腕、頭は勿論、体全部で頷いて、小さな家を飛び出した。


 雪はこの町で生まれ育ち、記憶がおぼつかない頃から芸術に触れてきた。触れてきたと言っても、自然と触れることになる。というと、この町は極限られた芸術が愛される町であるため、と言われ、悪印象とされることでさえも、と称される程なのだ。

 そのため、町中のいたるところに落書きとされる絵が描かれる。

 少女も十歳になると落書きを許されることを知っていた。その時が来たとき、少女は既にある場所に絵を描くことを決めていた。浜辺近くのマキおばさんの家の外壁である。マキおばさんは小さなころから雪の事を知っていてよく絵を一緒に描いた仲だ。

 そして約束していた。雪がまだそれよりも小さなころに十歳になれば彼女の家の壁に絵を描いていいと。


 雪は軽快な足取りで一つに結んだ長い髪を揺らし、海辺に建ち構える家へと向かった。途中で街の住人であり同じ画家とも会話をしながら。けれど、少女の頭はそれどころではなく、心なしの会話の終止符である決め台詞を元気よく言い放った。


「じゃあ、またね!」


 雪の中では様々な想像を膨らませた。マキおばさんの似顔絵を描いてあげようとか、有名画家の真似てみようかしらとか、マキおばさんの飼い犬の絵も候補に入れて描く前からウキウキとした。

 雪が海辺近くのマキの家に着くと、マキは裏庭にあるウッドデッキと庭との段差に座って、いつものように芝の上で飼い犬のコーギーを首輪もなしで自由にしている。マキとこの飼い犬のコーギーの信頼は固く、家から逃げ出すような犬でないことは言うまでもない。

 犬は何かを追いかけるように走り回っていたと思ったら今度は急に何かを探すように鼻を引くつかせ、きょろきょろとした。


「コニー!」


 雪が大きな声を上げコーギーの名前を呼ぶと、犬はワンと吠え長い尻尾を大きく揺らすが、雪がどこにいるかも気づいていない。生憎のところコニーはおバカ犬でご近所では有名である。町の人々からもコニーは名前を呼ばれるのだが、何度呼ばれても一向に誰から呼ばれているのかわからずにただその場でワンと吠えるのだ。だが町の人々には、そこがコニーの良さだとみんなから可愛がられている。

 雪は毎度ここに来るたびにコニーとかくれんぼをして遊ぶ。家の影から呼んで、コニーがこちらを向くとすぐに顔を隠し、家の反対側に急いで周りこみ、また呼ぶ。


「コニー!」


 そんな、名前を呼ばれるコニーは前足をジャンプさせる様に方向転換を繰り返しワンと吠えるが声の主がどこにいるのか見つけ出すことが出来ずに、体に似合わない大きな尻尾を懸命に振りワンワンと吠える。


「あらあら、コニー、雪ちゃんが来たのかい?」

「ワンワン……ワン!」


 コニーがこんなにも喜んで吠えるのは、雪が来たと知らせる合図なのだとマキは知っていて、顔を綻ばせた。

 何分か同じことを繰り返し、やっとの事、雪がコニーとマキの前に姿を現した。


「マキおばさんこんにちは!」


 雪はそういいながら芝生の上でまずはコニーの顔を挨拶代わりに両手で挟みぶるぶるさせる。コニーはそんな雑な挨拶を後ろの体を跳ねらせて嬉しさを表現する。


「雪ちゃんが来ると沢山のお客さんが来たみたいに賑やかになるわね」と言いながら立ち上がり、家の中に入った。

 そしてしばらくするとマキは紅茶とバスケットに入ったクッキーを家の外に持ち出してパラソルのついたテーブルに置いた。

 雪が手にしている物に気が付くと、マキは尋ねた。


「今日は何だかいつもより嬉しそうね」


 雪はそんな何でも見通してしまうマキを魔女ではないのかと心の中で思っている。


「あのね、あのね、おじいちゃんがチョークをくれたの!」


 雪は言葉に元気いっぱいの気持ちを込めてマキに伝えた。


「そう。それじゃあ、雪ちゃんももうおじいちゃんに許してもらったのね」

「そうなの!」


 この町では十歳になれば、一人の芸術家としての条件を満たすのだが、実は芸術活動をするには育ての親の許可がいるのだ。

 そしてマキの言葉の通り、大五郎はチョークのプレゼントとして間接的に許可を出したのだ。

 マキは優しさの籠った顔で口を開いた。


「じゃあ、約束を守らなくちゃね」


 雪はその言葉の意味を知らないかのようにそっぽを向くが、次の言葉を待つ間に既に笑顔だった顔をさらに崩して次の言葉を待った。


「壁に絵を描いてくれるかしら?」


 雪は待ってましたと言わんばかりに大きく頷いて立ち上がった。

 マキの家は他の家と比べれば比較的大きくて町では有名である。だが有名なのはその家の大きさではなく、落書きを描くスペースに多くの声が上がっているのである。

 それはそれは町に住む多くの芸術家たちが声が掛けるほどに人気であり、マキの家では頻繁に落書きがされた。

 自分の家に落書きをされるというと何だか可笑しな話で、迷惑にも感じるが、この町ではその考えは逆であり、書いてもらう事を望む。そしてマキの家のように描く場所がいいと、人気なのである。

 ならば勝手にその人気なスペースに絵を描かれないかと、違う町からきた芸術の良さを知らない者たちが不思議がるのだが、この町にはそんな悪い人達は多くはいない。なにせみんな芸術を愛している。

 芸術を愛するうえで、人と人との交流や関係をとても大切にし、落書きに関してのルールをみんな心得ている。

 落書きも当たり前だからこそ、このまちでは好き勝手にやってはいけないことを皆心がけているのだ。


 この町の落書きに関して決められたルールは大まかに三つある。


『町で認められた種類の道具を使う事』

『他人の所有物に対しては所有者に許可を得ること』

『マナーを守り、他人に迷惑をかけない事』


 ルールはこれだけだが、あとは伝統的ともいえる暗黙のルールの元、落書きを町全体で楽しみ、今までそれで成り立ってきた。


「マキおばさん、マキおばさん!」


 雪とマキは家の正面に周り、大きなキャンパスに向かっていよいよだという様子で雪はマキに声をかけた。

 そんな大きくて人気のキャンバスになんで十歳になったばかりの雪がすぐに落書きを描くことが出来るのかというと、マキは少女との約束をしっかりと覚えていて、薄々ながら雪が落書きの許可が下りることに気をとめていた。

 そのため、許可が降りれば直ぐにでも描けるように準備をして、他の芸術家たちの頼みも数週間前から断っていたのだ。

 この特別な日は雪にとっては勿論、マキにとっても待ちに待った日であった。


「雪ちゃん、もう何を描くのか決めているのかい?」


 マキは優しい声で尋ねた。


「えっとね、えっとね、雪とマキおばさんとコニーの絵を描くの!」


 少女は見た目の華奢な体からは感じさせない元気な声を張り上げて答えた。


「マキおばさんは雪を描いて!」


 基本的には雪が描くのだが、マキも絵を描くのはそれは上手であることを雪は知っている。だから雪はマキにも落書きを手伝ってもらうことで、二人で作品を作り上げたいと考えていた。


「えぇ、任せてちょうだい」


 マキはそう柔らかに微笑むと、同じようにチョークを手に取った。

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