32 制裁


 「かわいそうに」


 イルマは洗面台を労わるように撫でた。ちょうどわたしが頭をぶつけた辺りだ。ジョークなのか、心底洗面台に同情しているのか、さっぱり分からない。

 なんとなく肩から力が抜ける。少し呼吸が楽になった。


 「かわいそうもなにも元々壊れてるよ。それ」


 洗面台はわたしが居住するずっと前から壊れている。修理をする予算もないから、バスルームのオブジェと化していた。


 「水を」


 再びイルマがペットボトルを差し出した。わたしはペットボトルを受け取ると、黙って口に含んだ。

 そういえば、ちゃんと水分を摂っていなかったな、と今更ながら思う。

 急な吐き気も脱水症状のせいもあるのだろう。


 だからちゃんと水分補給には気を付けてくださいと言ったのに、とイルマの小言を聞かされながら、わたしはイルマに寄りかかり――イルマ曰くマグロの溺死体のように――ずるずると引き摺られてテーブル席に戻った。


 横になったほうがいい、とイルマは言ったけれど、もう少しだけノートを確認したかったのだ。


 改めてノートを確認すると、酷いことになっていた。


 気力も体力も尽きて、惰性で続けた“トレース”の終盤は、マナカの記憶を断片的にしか拾えていない。

 文字はミミズが這ったようにのたうち、言葉も途切れ途切れだ。まさに青色吐息といった瀕死の文章。書いた本人でなければシャンポリオンでも解読は不可能だっただろう。

 ノートには、スミへの制裁の記録が刻まれていた。制裁の内容はもう知っている。以前、スミの記憶を“トレース”した時にも見た光景だ。


 無視。

 拒絶。

 嘲笑。


 数々の場面がマナカの目を通して再現されている。

 断片的にしか記憶を拾えていなくて、かえって良かったのかもしれない。

 じっくりと読み返す気にはとてもなれなかった。


 ――お前が泣くな。


 場面の所々に、マナカの心境らしきものが散見された。

 力ない文字の中で、そこだけ懇親の力で書き殴られている。

 言葉を装飾する余裕もなかったから、むき出しで丸裸の感情だ。


 ――お前だけが辛いんじゃない。


 マナカ本人でさえ自覚しきれていない、心の底からの声。

 まるで絶叫だった。


 ――“ワタシ”だって泣きたい。


 ポツポツとノートに濡れた後が残っている。

 もしかしたら“トレース”しながら、わたしは泣いていたのかもしれない。

 わたしの瞳を通して零れた、マナカの涙。

 現実では零すことを許されなかった涙。


 「泣いても良いのに」


 わたしはマナカの記憶に話しかける。

 適切な時に適切な量を流さなかった涙は、自分自身を蝕んでしまう。マナカはもっとちゃんとたくさん泣いて良かったのだ。我慢などせずに。


 ――みんなのメイワクになるから。


 そういって抑えられた涙――食いしばって呑み込んだ感情は、やがて歪な形になって戻ってくる。

 過剰なスミへの態度もそうだ。

 過剰すぎる反応の奥には、大抵、嫉妬や自己投影が隠れている。

 わたしはノートの文字を目で追うと、スミに嘲笑を浴びせる場面の最後の一文を指でなぞった。


 ――そうやってみんな大人になっていくんだよ。スミ。


 力ない筆跡と、叩きつけるような文字の中に、紛れ込んだその言葉は、そこだけ清書したように美しく、ひんやりとしていた。

 よく見ると、殴り書きと同じ頻度で、ひんやりとした文字が文中のあちこちに潜んでいる。


 ――気付いて欲しい。知って欲しい。


 諭すような、語りかけるような、言葉が続く。


 ――みんな我慢している。

 ――みんな頑張っている。

 ――みんな。


 ひんやりとした文字の正体は正当化。

 スミもオシャレしなよ、と勧めていた時からマナカの中にあった、正義感にも等しい感情の流れは、みんなのメイワクという後ろ盾を得て、正当性を強化しながら感情の奔流と合流してしまった。

 わたしが危惧した通り、最悪の流れだった。

 人を最も残酷でより容赦のないものにするのは、悪意ではなく正義感だ。

 自分は間違っていないという確信。

 違っている相手が改めるべきだという憎悪。

 異質な存在に揺らぎそうになる自信を保持するための拒絶の態度。

 その奥で全てを突き動かしている動力源がある。みんなのメイワクという正当性の皮を被った奥にある熱源。


 ――お前だけずるい。


 象徴するようなマナカの言葉に行き当たり、わたしはノートの上で滑らせていた指を止めた。

 書き殴った丸裸の声。


 全ての熱源、本当の理由は――


 嫉妬。


 それが零すことを許されなかったマナカの涙のなれの果て。

 歪んで戻ってきた感情。


 “ワタシ”はしてないのにずるい、というとてもシンプルな感情は、正当化という鎧を着込んで武装して、その刃をスミに向けた。

 嫉妬を嫉妬と自覚するのは難しい。本当は羨ましいのだと認めるのは、あまりにも屈辱的すぎる。心底、軽蔑し、嫌悪すら抱いているはずなのに。


 結局、どこかで無理をしてきた言動――抑えつけた感情は、歪んだ形になって戻ってきてしまう。


 「もっとちゃんと泣いてよかったのに」


 わたしはここにはいないマナカに繰り返し話しかけた。

 繰り返さずにはいられなかった。

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