4 警告



 あんなに分かり易く真っ直ぐな好意の眼差しも珍しいのに。

 キシの見事な鈍感系ぶりに、内心やきもきしてしまう。

 キシはデッサンの一枚を手に取って、画塾講師の表情のまま眺めている。溜めつ眇めつといった様子でデッサンを確かめ「うん」と納得した。


 「マナカ……だっけ? 彼女いいね」

 「物覚えが良いから上達も早いね」


 マナカは画塾に入ってまだ一週間しか経っていない。

 受けた指導はたったの二回。

 今日を含めれば三回。

 そのたったの三回で指摘された部分のほとんどが改善されている。

 上達の兆しと、伸びしろの幅に、かなりのポテンシャルを感じた。


 「いいセンスしてる。彼女はこのままで大丈夫だろうね。問題は――」


 再びスミのデッサンに視線を戻して二人で首を捻る。

 スミの描いたマルス像はどこかコミカルだった。

 おそらく我流で描いていた頃の手癖が抜けきっていないのだろう。


 「――個人指導が必要かもね」

 「先生も言ってたしね」


 先生とは画塾の塾長であるシミズ先生のことで、二人の間で『先生』と言えば、大抵、彼のことを指した。

 中学から美大入学までの六年間をシズミ絵画教室で過ごしたわたしにとって、先生への信頼は絶大なものだった。

 先生も指摘しているのだから、やはりスミの個人指導を考えたほうがいい。

 もしそうなら、どう本人に説明し、どうやって時間を割り振ろうか。


 「セマ」


 壁掛けカレンダーを眺めて考え込んでいると、キシがわたしを呼んだ。

 いつになく改まった声。

 反射的に「うん?」と振り返ると、キシの表情が強張っていた。


 固く尖った面持ち。

 どこか挑むような厳しい視線。


 怒気の気配に、キシが初めて怒りを露わにした、タマサカさんとの対峙が想起されて、彼が何を言わんとしているのか、その瞬間に察しがついた。

 わたしはきゅっと唇を噛んで眉を寄せる。


 言わないで欲しい。

 聞きたくない。


 表情で訴えたけれど、キシは押しのけるように切り出した。


 「タマサカと付き合うのやめろよ」


 単刀直入な一言。

 ばっさりとした口調に、わたしは息を詰める。


 「なんで?」


 絞り出した声はひどく乾いていた。

 他人事めいた冷たい声に、自分でもぎょっとした。

 針で突かれでもしたように、キシの表情に痛みが走る。

 わたしの余所余所しさが、痛みに敏感なキシの心を突いたのだ。

 チクリと胸が痛んだ。

 それはキシを傷つけた罪悪感からなのか、“混線”を介して感じたキシの痛みそのものだったのか、どちらかを見極める余裕は、わたしにはなかった。


 「あいつは――」


 キシは言葉を区切る。

 名前も口にしたくないのだろう。

 あいつという響きには、はっきりとした嫌悪がこもっていた。


 「あいつはセマに初めて会ったとき、なにか言った?」


 唐突に質問されて、わたしはタマサカさんと知り合った一年前を振り返る。

 大学構内の中庭でマツリカのスケッチをしていた七月の暑い日。

 わたしとタマサカさんは知り合った。

 うだるような暑さと、むせ返るマツリカの香りの中で、ずいぶんたくさん話したような気がするけれど、印象的な言葉は、ひとつしかない。


 「世界を見たくないかって……お前に世界を見せてやろうって」


 わたしは言い淀む。台詞だけ聞くと、我ながら意味不明としか言いようがない。ほかになんと説明すればいいのか分からなかった。

 それでもキシは、何かしらの意味を汲み取ったのだろう。

 今度はキシが眉を曇らせる。

 キシは固い面持ちのまま、早口に呟いた。


 ……メフィスト。


 そう聞こえたような気がする。

 それが何を意味するのか、わたしには分からない。

 ただ暗雲のような不穏な気配と、心のざわつきだけは伝わった。

 キシは真摯な表情で繰り返した。


 「あいつとは関わらないほうがいい」


 小さな声だけれど、キシの声は決然としていた。

 キシの真っ直ぐな視線に耐えきれなくなって、わたしは俯いてしまう。

 膝の上で握った自分の拳を見つめる。


 「……ごめん」


 それは出来ない。


 わたしは首を振る。


 「世界を見る」なんて言葉が馬鹿げでいるのは自分でも分かっている。それにタマサカさんの誘いが、誰にも説明できないくらい胡散臭い話なのも。


 それでもわたしは魅了されてしまったのだ。

 「世界を見る」という言葉と、タマサカさんという人に。


 キシになんと言われようと、それだけは譲れなくて、わたしはただ首を振ってキシの警告を跳ねのけるしかなかった。

 キシは迷子の子犬みたいに悲しそうな目をして押し黙った。二人の間で初めて感じる気詰まりな沈黙が悲しくて、わたしはもう一度呟いた。


 「ごめん」

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