5 混線と混乱



   ◆◆◆


 スライダーを指先で押した。

 チキチキという確かな手ごたえとともに、鋭く尖った刃が現れた。


 紙のように薄くペラペラとしたそれは、指でつつけば簡単にたわんで壊れてしまいそうなのに、簡単にたわんで壊れてしまったのは、“ワタシ”の指先のほうだった。

 鋭い刃先に突かれた指から、血の雫が玉のように膨らんでいく。


 透明度のない濃厚な赤。

 縁が黒く見える深い赤。

 珊瑚玉のような赤。


 ――キレイ。


 うっとりと呟く。でもまだ足りない。もっともっと。自分の心が催促している。もっともっと。もっと血を流せ。

 “ワタシ”は左腕を裏返し、ゆっくりと自分の方へ引き寄せる。

 真っ白な腕は、まるで水族館でショーをするイルカのお腹みたい。


 無力で無害で無防備。

 油断しきった白。

 楽観の白。

 呑気な白。


 ――腹が立つ。


 苛立たしい白さの中に、青と紫の静脈が透けて見える。

 青と紫のラインを目で追っていると、ドクドクと鼓動が早まっていく。

 これから起きることを心臓はもう知っているのだ。はやくはやく、と心臓が“ワタシ”を急かしている。はやくはやく、もっともっと。

 心臓が早鐘のように高鳴って、息が上がって苦しい。

 早くしないと、窒息してしまう。

 吊り上げられるギロチンのように、“ワタシ”はカッターの刃を掲げ上げる。


 ……ある朝、森のクマさんが。


 不思議なフレーズを口ずさむ。ママがよく唄ってた童謡だ。“ワタシ”もママと一緒に唄っていた歌。大好きだった。


 ……小さな貝殻を見つけて。


 ハンドクリーム。

 風になびく洗濯物。

 晩ごはんのカレー。

 フレーズと一緒にママの匂いがする。


 ……お皿をつくりましたとさ。


 カッターの刃先が手首を滑る。限界までへこんだ皮膚は、ぷつんと音がしそうな感触と同時にパックリと裂けた。

 ひやりと全身が総毛だつ。

 左腕にかっと熱がはしる。

 ”ワタシ”の手首は開かれた。

 開かれた手首の内側は鮮やかな桃色をしていて、餌をねだるイルカの口みたいにツヤツヤとしていた。


 無力で無害で無防備な色。

 油断しきった色。

 楽観した色。

 呑気な色。


 ――腹が立つ。


 桃色の中に大小の血玉がぷつぷつと膨らんでいく。

 何が起きたのかも分からず、オロオロと動きまわる群衆のように、血玉は互いにぶつかりあって繋がると、瞬く間に傷口から溢れ出した。

 腕を伝うあたたかな血は、急速に温度を失い、指先を冷たく濡らす。

 ハタハタと落ちる血は、まるで涙のよう。

 遅れてやってきた痛みが、鼓動と一緒にズクズクと傷口を疼かせる。

 その疼きはぞくぞくするほど心地良かった。

 嗜虐的な笑みがこぼれる。

 “ワタシ”は傷口にむかって呟いた。


 ――ざまあみろ。

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