3 憧憬
「スミちゃんだいぶ上達したね」
スケッチの一枚を拾い上げて、わたしは言った。
テーブルには何枚かのスケッチが残されている。
ちょっと右に傾いたリンゴ。
手前と奥で画角のズレたバナナ。
時間内に形を取りきれなかったマルス像。
まだまだ課題の多いそれらは、今しがたまでスミとマナカが描いていたデッサンだ。ささやかなデッサン会が終わり、二人を見送った後、わたしは残された用紙を、ひとつひとつ手にとって確認していた。
一応、画塾の講師である以上、塾生の画力と今後の対策を把握しておかなくてはならない。
テーブルの向かいに腰かけたキシが「だね」と相槌を打つ。
視線は手にした文庫本の文字を追ったままだ。
「三島由紀夫?」
問い掛けると、キシはまた「だね」とだけ答えた。
そのまま黙ってしまう。
もともと口数の少ないキシだけれど、ここしばらくほとんど無言の状態が続いていた。本を読んでいるか、物思いにふっているか、どちらかだ。話しかけても「だね」としか答えない。
スズキの件以来、ずっとこの調子なのだ。
自分の才能に見切りをつけて退学したスズキ。スズキにそう決断させたのは、キシの絵だった。自責の念が深い傷跡となってキシに残されたのだろう。キシが気を持ち直すには、もう少し時間がかかりそうだった。
「志望。うちだっけ?」
不意にキシが顔を上げる。わたしは何のことかと、きょとんと瞬いてから、スミとマナカの志望校のことだと思い当たる。
「そう。第一はね」
キシは少し間を置いて、何かを測るように視線をさまよわせた。
「ちょっと……」
厳しいね、の一言をキシが呑み込む。
声にならなかった言葉の意味に、わたしは肯き返す。
「一応、専門も視野に入れてあるけど、ご両親が反対してるらしくてね」
一昔前の通勤ラッシュのようなすし詰め状態ではないにしろ、うちの美大の倍率はまだまだ高い。進路を絞って中学から画塾に通っている者も多い中、スミやマナカのように高校二年からのスタートでは、遅すぎるくらいなのだ。
厳しいね、と繰り返し、キシと二人で首を捻る。
なんとなく帰り際に見たスミの表情が脳裏をよぎって、わたしはくすぐったい気持ちになる。キシの横顔をじっと見つめるスミの、眩しさに溶けたような恍然とした表情には、彼女の心の内が余すことなく代弁されていた。
「スミちゃんのことどう思う?」
少し身を乗り出して問い掛けた。
イントネーションにちょっと違うニュアンスをにおわせてみる。
「視る、描く、の基本を徹底するしかないね」
案の定、良くも悪くも朴念仁なキシは絵の指導しか念頭にない。わたしはついつい苦笑いしてしまう。不思議な感じだった。
キシも男なのだから異性への本能的な要求は持っている。
半ば強制的ともいえる抗い難い肉体的な要求と、要求にともなうセクシャルな妄想というものが、思春期以降の思考のかなりの部分を占めているらしいことを、わたしは“混線”を通して感じ取ってきた。
猫好きがふわふわの子猫を抱きしめて頬ずりせずにはいられないように、彼らは妄想の中で、好みの相手のたおやかな肢体をかき抱かずにはいられない。
四六時中、たわわな妄想と戯れているせいか、女の子の言動すべてを自分への好意に誤訳してしまう者もいれば、いざ女の子の側からアプローチされても、スイッチが切り替わるように朴念仁に成り代わってしまう者もいる。
どうやらキシは後者のタイプらしかった。
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