28 カラスの宴


  ◆◆◆


 バイクの音が静寂を裂いた。


 新聞配達の原付バイクはマフラーの調子が悪いらしい。

 いつもバリバリと大音響を響かせて、アパートの前を通り過ぎていく。早朝に聞くには、あまりにも大きすぎる音だ。


 「ああ。もう」


 わたしはイライラと悪態を付いた。

 静寂と一緒に、わたしの集中も蹴散らされてしまった。


 簡単に散ってしまうものなのに、集中までの距離はずいぶん遠い。息を詰めて深く深く潜っていった先で、“トレース”は進行する。

 ギリギリの拮抗を保ちながら、組み上げられた記憶のパズルは、一度壊れてしまうと、二度と同じものには辿りつけない。もう一度、深く潜り直したところで、戻った先にあるのは、似てはいても全く別のものでしかないのだ。

 集中が途切れるたび、“トレース”の鮮度と明度は濁っていく。

 それは取返しのつかない損失に思われた。


 溜息がもれる。

 わたしはマグカップに手を伸ばす。

 ひどく喉が渇いていた。

 冷めたコーヒーを喉に流し込む。

 すっかり酸化したコーヒーは酷い味がした。


 胃と胸のむかつきが増しただけで、少しも気分はよくならなかった。


 マグカップを脇へ押しやり、かわりにスマホを引き寄せる。性懲りもなく、わたしはメッセージアプリを確認した。

 何度見ても同じだ。


 メッセージは未読のまま、文字は途方に暮れている。


 柱時計を確認しなくても、白み始めた窓の景色から、朝がすぐそこまで来ているのが見て取れる。

 何処か遠くで、カラスが騒いでいた。カラスたちは早朝のゴミ置き場で宴に興じているのだろう。


 タマサカさんは来ない。

 来れない日だってあって当然だ。

 彼には彼の事情がある。


 そう思う反面、連絡なしの不在の訳が、どうしても気になる。

 やはり昨晩のことで不興をかったのかもしれないし、全く別の理由かもしれないし、不測の事態が起こったのかもしれない。


 また同じ憂慮の堂々巡りが始まって、心がざらついた。

 少しも眠くはなかった。眠気のピークは遠の昔に過ぎている。身体は泥のように疲れているのに、頭の芯はこもったように熱かった。

 脳が興奮しているのが自分でも分かる。このままベッドに入ったところで、到底、寝つけはしないだろう。


 わたしはほとんど無意識に鉛筆を握りノートに向かった。疲弊しきった状態で、“トレース”を続けていいはずもないのに、徹夜の疲労と興奮が、わたしから思考力を奪っていた。手がかってに文字を綴ってノートの上を滑っていく。


 サトはよく喋る。兎も角、ずっと――


 「誰?」


 浅い集中が途切れて、手が止まる。

 わたしはうんざりと吐息をもらした。

 思った通りだ。

 先刻まで辿っていた“トレース”とは、全く別の場所に出てしまった。やるせなさに肩が落ちる。それでも続けるしか路はないのだ。

 わたしはぐっと鉛筆を持つ手に力をこめた。

 鉛筆の先が再びノートの上をはしっていく。


 カラスの饗宴はまだ続いていた。

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