29 サト
◆◆◆
サトはよく喋る。兎も角、ずっと喋り続けるのだ。
印象的に大きな口からは、この世に生まれ出た瞬間から喋り続けてきたのだと言わんばかりに、ぽんぽんと冗談が飛び出してくる。
教師の物まね、購買のパンの有無、通学バスで見かけたサラリーマン、はてには退屈な歴史の授業でさえ、サトの口にかかれば痛快なユーモアに彩られた笑いへと転化され、雑談に爆笑が巻き起こる。
クラスメイトの中で、ミナミが憧憬の中心なら、サトは笑声の中心だった。
内緒ね、とミナミが声を潜ませればみんな好奇心から浮足立ったし、昨日ね、とサトが口火を切ればみんな期待から前のめりになるのだ。
両者ともにみんなの期待を裏切ることはなく、むしろ、期待に沿うべくして、そうあり続けているようにも見えた。
「ウチ、バカだから」が口癖のサトを、「悩みとかなさそうだね」と茶化す声も多かった。そのたびサトは最高の賛辞を受けたように「でしょ」と屈託なく笑うのだ。
面白くて楽しくて気難しさもないサトはみんなから好かれていたし、“ワタシ”にとっても、喋りやすい友達だった。
だからなのだろう、体育前の更衣室でサトの背中に大きな青あざを見付けた時、なんの躊躇いもなく“ワタシ”は訊いた。
「背中、どうしたの?」
もう始業のチャイムは鳴っていて、二人とも少し慌てていた。サトは音が耳に入ると同時に反射のように答えた。口が滑った。まさにそんな感じだった。
「飲んだくれじじぃに蹴られた。あいつバカだから手加減ないし」
ノンダクレノジジィニケラレタ。
あまりにもさらりと滑り出てきた言葉は、シュメール語かナワトル語でも聞いたような不思議な響きで、“ワタシ”は言葉の意味を掴み損ねた。
え? と訊き返すと、サトの顔色が変わった。
しまった、とその表情が語っていた。
サトはきゅっと口を引き結んだ。お互いに顔を見合わせたまま無言だった。サトは諦めたように苦笑した。印象的な大きな口が、訥々と語りだした。
ウチのお父さん。
酒乱ってやつかも。
でもたいしたことないよ。
たまに飲むと殴ってくるけど、いつもじゃないし。
たまにだから。ほんとたまにだから。
普段は優しいし、大人しいくらいだし。
全然、たまにだし。
たいしたことないよ。
父親を弁解するサトの言葉は、逃げ足のように早口だった。もうこの話はやめてくれと、サトの心が足早に走り去っていく。
「誰にも言わないで」と拝むポーズで、サトは会話を終わらせた。
わたしはサトとの約束を守った。それ以上、追及しなかったし、誰にも話さなかった。ただ黙ってサトがときどき付けてくる青あざを見ていた。
暴力を振るわれるのはたまになのだとサトは主張していた。
たいしたことはないとも。
一ヵ月に一度か二度、あるかないかの頻度。ほとんどはそれと知ってみなければ気付かない程度の淡いアザ。極稀にシャツの上からでもはっきりと見て取れる青アザもあった。
それをたまになのだと、だからたいしたことはないのだと、思っていいものなのか“ワタシ”には判断がつかなかった。
結局のところ“ワタシ”は、どうしたらいいのか分からなかったのだ。
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