30 メイワク




 “ワタシ”の涙。

 ミナミの震える肩。

 サトの引き結ばれた唇。


 声にならない小さな悲鳴も、流されなかった透明な涙も、世界の歯車は耳には聞こえない轟音を上げながら、全てを轢き潰してゴウゴウと回り続ける。それでも“ワタシ”たちは笑う。それぞれの痛みを抱えながら軽口を交わして笑い合う。


 深刻になり過ぎない。

 鈍感でいる。


 それは“ワタシ”たちに許された数少ない心の鎧だった。ちっぽけで無力な涙を蹴飛ばして、そんなことは知ったことかと吐き捨てる日常の中で、ようやく辿りついたささやかな救い。

 だから笑うのだ。わりとなんでもないよ、という顔をして――



 「わたし、そういうの分かるから。人とか生き物の痛みとか。そういうのなんかわかるから」



 視聴覚室での帰り道。廊下に響いたスミの声。世界中の悲しみを一身に背負ったようなスミの言葉を聞いた、あの時。


 ミナミの肩が微かに震えた。

 サトの唇がきゅっと引き結ばれた。


 “ワタシ”は知っている。

 スミには「ただいま」と言って帰れば、「おかえり」と笑顔で出迎えてくれる家族がいることを。「いらっしゃい」と微笑んで、スミと“ワタシ”に甘いケーキと温かい紅茶を出してくれる優しいママがいる。

 部屋には子供の頃から大事にしているという小物とぬいぐるみが溢れていて、母の日のプレゼントもパパへの感謝の手紙も、大切そうに飾ってあった。

 急に雨が降り出した帰り際、「もっていきなさい」と傘を手渡してくれたスミのママの手は、ふんわりと温かで、洗濯物の香りがした。


 スミは充分に恵まれている。

 なのに世界中の悲しみを背負ったように泣くスミ。


 ――お前が言うなよ。


 “ワタシ”の中で何かが弾けた。

 大事なもの。大切なもの。なくしたくないもの。全部なくなった日。体中を声にして泣いても、空は泣かないことを“ワタシ”は知った。

 どんなに悲しくて、どれだけ泣いても、空にとってそんなことなど知ったことではなく、一粒のちっぽけな涙を轢き潰しながら世界の歯車は回り続ける。


 “ワタシ”は泣くのを止めた。

 わりとなんでもないよ、と笑っている。

 歯を食いしばって、笑っている。

 頑張って笑っている。

 笑っている。

 笑っている。

 笑っている。

 笑っている。

 笑っている。


 ――お前が泣くな。


 “ワタシ”は叫びたくなる。自分だけが世界中の悲しみを知っているように泣くスミが許せなかった。

 感じやすく泣きやすいスミ。スミはどこかで、そんな自分の感性を自負している。そして「わりとなんでもないよ」という顔をして生きているみんなを、愚直で凡庸な人たちだと決めつけている。侮っているのだ。みんなを。


 ――どうして気付かない?


 スミの侮りが、それぞれに抱えた悲しみを、土足で踏みにじっているのに。


 スミにも知ってもらいたかった。

 知ってもらうべきだとも思った。

 気付いてもらいたかったのだ。

 気付いてもらうべきだとも思った。


 ――みんなの迷惑だ。


 ミナミの震える肩に、サトの引き結ばれた唇に、ヒタヒタと溜まっていた水滴が、とうとういっぱいになってコップから溢れ出すのが見えた。


 日常で振りまかれた迷惑への制裁が始まった。

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