31 夜明け
◆◆◆
ひどい吐き気がして、わたしはトイレに駆け込んだ。
嘔吐したかったけれど、何も吐き出せない。
苦しさで息が詰まって涙が零れた。
わたしはぐったりとバスタブに寄りかかった。
古風な洋式アパートだから、カーテンで仕切られたバスルームには猫足のバスタブと便器が隣接している。バスタブの水滴がシャツを濡らす。火照った身体にタイルの床が心地良い。いくらか気分も楽になった。
小窓から射す朝日に洗われ、白と青のタイルがキラキラと輝いている。こんな時なのに、綺麗だな、とぼんやりと思う――否、こんな時だからなのだろう。思考力はほとんど残っていなかった。
もう朝だ。わたしは一晩中マナカの記憶を“トレース”していた。結局、タマサカさんは現れず、連絡もなかった。
明け方にカラスの声を聞いた後、休憩もせずに“トレース”を続けていたところで、急な吐き気に襲われたのだ。体力的にも、精神的にも、これ以上の“トレース”は無理だと体中が悲鳴を上げていた。
「……みんなの迷惑」
わたしは“トレース”で聞いた、マナカの言葉を呟いた。記憶の中では怨嗟の声のように重たかったそれが、口に出してみると急ごしらえのキャッチフレーズかなにかみたいに薄っぺらでチープだった。
――みんなの迷惑。
それが始まりだった。スミがいない放課後に、みんなの前で「あいつウザくない?」と最初に切り出したのはマナカだった。
マナカの言うあいつとは、スミのことだ。
初めの一言が口火を切れば、あとは堰を切ったように、不満と不愉快が少女たちの口からいっせいに溢れ出した。
そして、スミへの制裁が始まったのだ。
少女たちはスミを仲間の輪から弾き出した。拒絶という制裁――そう、少女たちにとってそれは、まぎれもなく制裁だった。
何かを批判する者は、ほとんどの場合、それを悪口だとは自覚していない。傷つけられた気持ち――脅かされた権利への正当な主張だと認識している。
スミを拒絶した少女たちもまたそうだ。少女たちにとってそれは正当な主張だった。スミは度々みんなの気持ちを台無しにしてきた。
それは許しがたい罪だった。
みんなはみんなに我慢を強いる。
お互いに多少の窮屈を覚えながら、人に不愉快を与えないというルールの中で生きている者たちは、ルールから外れる者を許さない。
みんなを重んじて、みずからを御する。
それは規範や道徳というより、むしろ美学に近かった。そして、美学であると同時にスキルでもある。生まれながらに持っているものではなく、各々に集団の中で何度も失敗しながら苦労して習得していく技術なのだ。
挨拶をする。
お互いを褒め合う。
ちょっとバカなくらいのほうが角が立たない。
かといって舐められない程度には毒を盛って牽制する。
手練手管で舵をきり、絶妙なバランスを保ちながら、各々のヒエラルキーに応じた役割を見極めて立ち振る舞う老獪な政治屋のような技能と駆け引きが、教室の中では必要不可欠だった。
スキル習得の遅れは、幼稚さや努力不足とみなされる。
少女たちのスミへの拒絶は、自分たちの努力――みんなの気持ちを優先しなかったという許しがたい行為への正当な制裁措置なのだ。
「……みんなか」
わたしは吐息と一緒に呟いた。どうしても溜息が出てしまう。少女たちにとって教室が世界の全てであるように、みんなこそが侵しがたい万物のルールでもあった。少女たちの知っているみんななんて、せいぜい数名でしかないのに。
それでもスミは、徹底的に排除され、執拗に何度も踏みつけられた。繰り返し繰り返し無視と拒絶の態度を示して、少女たちはスミを制裁し続けた。
だけど本当の理由は、みんなの迷惑だからではない。
本当は――
「ひゃっ」
唐突に左頬に冷たい物が押し当てられた。わたしは変な声を上げて飛び上がる。ごつん、と洗面台の裏に頭をぶつけて、目の前に星が散った。あまりの痛さで頭を抱えてうずくまると、上から声がした。
「大丈夫ですか?」
言葉のわりにあまり心配しているようでもない、飄々とした口調。誰なのかは確かめるまでもない。定刻の午前六時を過ぎて、起き出してきたのだ。
「……イルマ」
顔を上げると、やはり全く心配している様子もない表情で、イルマが佇んでいた。右手にはよく冷えたミネラルウォーター。ボトル表面についた水滴が陽光を反射してチラチラとまたたいていた。
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