14 静かな午後
◆
その音は潮騒に似ていた。
波頭が弾け、白い飛沫が飛び散ると同時、ぐるりと逆巻いた流れが海底を引っ掻いて砂を鳴らす。
無限にも等しい砂粒は、大きなうねりとなって海を唸らせるのだ。
泡の弾ける音と、砂のざわめき。
瞼の裏に浮かぶ海の景色を眺めながら、わたしはラジオを聴いていた。
もちろんここは海ではない。いつものアパートのいつもの屋根裏、テーブル席に腰かけ、わたしは何杯目かのコーヒーを飲んでいた。
潮騒の正体は壊れかけのトランジスタラジオだ。
イルマが拾ってきた骨董品は、ここのところ調子が悪い。ほとんど雑音しか入らないのだ。そろそろ寿命なのかもしれない。
雑音の合間に男性アナウンサーの声が途切れ途切れに聞こえてくる。
あまりにも切れ切れにしか入らないから、アナウンサーが青色吐息で原稿を読み上げているのではないかと、心配になった。
わたしの見当違いな心配をよそに、午後のニュースは不穏な中東情勢と相次ぐテロと各国の声明を告げたあと、上田動物園でパンダが生まれたことと、都内で行われる花博フェスティバルの賑わいを報せた。
緊迫したニュースと、穏やかなニュースと、株価と天気予報。変わらない構成と、変わらない進行と、変わらない潮騒。
「ラジオ。うるさくないかな?」
声を掛けると、部屋の中央で肩を並べてイーゼルに向かっていたキシとスミが、二人同時に振り向いた。
「気にならないよ」
「大丈夫です」
揃って首を横に振る二人。
確かに二人とも作画に夢中で、ラジオの雑音が気になっている様子はない。ラジオの声さえ届いてはいないのかもしれない。
それぐらい二人はデッサンに集中していた。
デッサン会の後でキシと相談して、スミの個別指導を決めた。このままでは受験に間に合わないという危惧から、夏休みの間、集中的にデッサンをやり込むことにしたのだ。平たく言えば補習だ。
補習を言い渡されたら、誰だっておもしろくはないだろう。気分を害さないよう、わたしは言葉を選んで二週間の補習をスミに進めた。当のスミは嫌な顔ひとつせずに快諾してくれた。むしろ嬉しそうですらあった。
補習の場所はわたしのアパート。指導にはキシも加わる。条件を並べると、スミが喜ぶ理由も、なんとなく察しがついた。
こうして始まった集中講座は、今日で七日目。午後一時から三時までの二時間をつかって、みっちりとデッサンに励む。
わたしはその間、欠伸を噛み締め噛み締めして、眠気をやり過ごした。疲労と寝不足でとても使い物にはならず、不調を理由にキシに指導のほとんどを任せていた。
不調に嘘はないけれど、そこには幾ばくかの狙いもあった。
何かと塞ぎ込みがちだったキシにも良い気晴らしになると思ったし、スミへのささやかな追い風のつもりだ。
わたしはイルマ同様に補習の時間を限りなく透明に近い空気として過ごしたし、イルマもまた、いつもの窓辺で、空気に徹している。
いつもと違うところといえば、黒猫がいないことくらいだろうか。
黒猫は気紛れに姿を現したかと思えば、ふいっとそっぽを向いて何処へともなく消えてしまう。黒猫の不在に注意を払う者は我が家にはいない。気が向けばまた帰ってくるだろう。
昼下がりの静かな時間が、ゆったりと部屋を横切っていく。
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