15 遠矢


 講座を終えて帰っていくキシとスミの背中を見送った。


 ひとことふたこと言葉を交わす二人。


 人見知り同士、何かと難渋いている様子ではあったけれど、七日前のぎこちなさを思えば、ずいぶん打ち解けたほうだ。

 初日など、同じ最寄り駅にも拘わらず、数秒と数メートルという微妙な時差と距離を置いて帰途についた二人が、少なくとも今は駅までの路を並んで歩くまでには、お互いの距離を縮めつつあった。


 二人の後ろ姿が林道の坂をゆっくりと下って行く。わたしは窓越しに振っていた手を引っ込めた。


 また欠伸が漏れる。

 眠い。


 連日連夜の“トレース”に、わたしは疲弊し始めていた。それでもなんとか続いているのは、タマサカさんのお陰だ。


 誰かの記憶を文字へと引き下ろす“トレース”は、数ある“混線”の中で最も負担が少ない。文字情報のみという制約が、神経への負荷を軽減させるらしい。

 ただし、自動筆記状態で文字を書き続けるという行為そのものは、体力的にかなり辛い作業でもある。


 作業中は自由意志や時間間隔が曖昧になってしまう。


 下手をすると体力が尽きるまで自動筆記し続けたあげく、まったく見当違いな記憶ばかり掘り起こしてくる可能性だってあるのだ。

 “トレース”技術が未熟なわたしには、時間を管理して進行の舵を取る補佐役が欠かせなかった。タイムキーパー兼ファシリテーターといった役どころだ。


 本来、それはイルマの役割だったけれど、「休養」を推す彼からの助力は期待出来ない。不在のイルマに代って、補佐役を務めてくれているのがタマサカさんだった。

 タマサカさんはイルマが就寝する深夜過ぎにやってきて、イルマが起き出す午前六時までには引き上げる。


 彼の補佐を受けながら、マナカの記憶を“トレース”しては、こまめに休憩を挟んで進行状態を確かめた。


 “トレース”に没頭いている時間はそれほど多くない。

 むしろタマサカさんは知識や技術の説明に重点を置いていた。


 実のところ、“トレース”に補佐役が不可欠だという現状も、イルマが実直に補佐役を務めていたらしいという事実も、タマサカさんからの享受で、ようやく合点がいったようなものだった。


 教科書のように画一的にか、あるいは頓智か禅問答か変な比喩にしかならないイルマの説明に比べれば、タマサカさんの指導ははるかに学ぶことが多く、わたしの“トレース”は格段に精度を増した。


 「休養」が推奨されている今、精度が増して良いのか悪いのか、悩ましい部分ではあるけれど……。イルマには言うな、というタマサカさんからの箝口令に従い、わたしはイルマに何も話していない。


 全てを俯瞰可能だというイルマのことだから、知らないはずはないけれど、“トレース”の強行について、彼からは何も言ってこなかった。


 イルマとタマサカさんの間での最終的な決定権はタマサカさんにある。


 どれだけ反目し合っていても、ひとたびタマサカさんが命令を下せば、それは絶対で、イルマはとても従順な犬のように命令に従う。


 どうしてそうなるのかは、わたしには分からないし、イルマを理解するのは不可能だ、とタマサカさんは断言している。

 何故なのかを考えるだけ無駄なのかもしれない。それでもイルマが何を考えているのかは気になった。イルマはわたしとタマサカさんから、完全に締め出された状態なのだ。


 しげしげと窓辺に座るイルマを見ていると、不意にイルマがこちらを向いた。照れてしまうくらい、ばったりと目が合う。

 視線を合わせたまま、イルマが口を開いた。


 「連日連夜、あんなことやこんなことでお疲れのところ恐縮ですが、そろそろおやつの時間です」


 イルマは余計な口出しはしない。そのかわり遠矢のようにチクチクと揺さぶりをかけてくる。


 「その言い方なんだかその……」


 口ごもるわたしに、ばったりと目を合わせたまま、「違うんですか?」とイルマは首を傾げた。返す言葉も見つからない。わたしはわざとらしく目を逸らし、イルマに背を向けキッチンに退避した。


 締め出した罪悪感からなのだろう。

 イルマの視線が落ち着かない。


 食器棚の影に隠れてようやくほっと息をつくと、キャビネットから小麦粉の袋を引っ張り出した。バニラエッセンスの小瓶を探しながら、イルマに声を掛けた。


 「ホットケーキ焼くよ。それでいいよね?」

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