12 人違い

 

 コツコツと振り子が揺れていた。

 飴色の光沢を纏った柱時計は、実直な執事のように時を刻み続けている。

 どこか遠くで救急車のサイレンが夜を引っかいていく。

 アパートを囲む雑林が、風に揺れて葉を鳴らす。


 チリン、と風鈴が鳴った。


 あ、とわたしは席を立つ。急いで窓辺に歩み寄った。夜には片付けるはずの風鈴を、イルマが仕舞い忘れたのだ。


 イルマが忘れるなんてあり得るのだろうか。

 不思議に思いながら、軒先に手を伸ばす。


 届かない。

 指先が届くか届かないかぎりぎりの距離。

 目一杯、背伸びをしても、どうしてもあと数センチが足りない。届かないわたしの指先をあざ笑うように、イルカの風鈴はくるくると愉快そうに回っていた

 椅子を持ってこようと思ったところで、ふっと影が差した。背後から伸びた大きな手が、風鈴を軒から引き下ろす。触れた背中の温度に、飛び上がりそうになる。考える暇もないうちに、背中の気配は遠ざかった。


 肩越しに振り返ると、タマサカさんが備え付けの棚に風鈴を片付けていた。下から二段目、写真立てとトラのぬいぐるみの間に、ことん、と音を立てて陶器のイルカが並ぶ。イルマがいつも片付ける場所だ。


 タマサカさんはついでのようにトラのぬいぐるみを手に取った。

 ヴィンテージものらしく、かなり年期が入ったそれは、中綿がすっかりゆるんで、帰宅直後のサラリーマンのように草臥れていた。

 たいして興味もなさそうなのに、タマサカさんは二度三度と引っくり返してぬいぐるみを上下させる。


 「お気に入りだったな」


 トラの頭を軽く小突いて棚に戻す。

 ちらりと笑顔を浮かべ、タマサカさんはテーブルについた。

 何かを懐かしむような微笑み。

 見たこともない表情に気を取られ、思わず「はい」と肯いてしまったものの、内心きょとんとした。

 お気に入りもなにも、わたしはそれらになんの愛着も持っていなかった。

 トラのぬいぐるみもイルカの風鈴も、最近になってイルマが物置から引っ張り出してきたばかりなのだ。


 不思議に思いながら、テーブルに戻る。

 席に座ろうとしたところで、コーヒーカップが空になっていたことに気づいて、わたしはカップを持ってキッチンに引っ込んだ。

 コーヒーを淹れなおしながら首を捻る。


 ――誰かと間違えた?


 気にはなったけれど、訊けるような雰囲気ではなかった――否、わたしはいつだってタマサカさんに何も訊けない。彼を煩わせたくないという気持ちが、いつもわたしから質問を奪ってしまう。

 わたしは息苦しく押し黙って、沸騰するお湯を見つめた。




 「顔色が悪い」


 そう指摘されたのは、淹れたてのコーヒーに口をつけた直後だった。

 月報から顔を上げ、タマサカさんが真っ直ぐにわたしを見ていた。

 誰と間違えたのか気が気ではなかっただけに、内心の動揺を見透かされたような気がした。慌てておろしたカップが、ガチャンと不自然に大きな音を立てる。


 「あの」


 何かを言わなくてはと焦るけれど、なかなか言葉が出てこない。

 あの、あの、あの、と悪戯に繰り返す姿は、昼間にトートバッグと悪戦苦闘していたスミと変わらなかった。


 「マナカの……夢を見たんです」


 なんとか言葉を捻りだす。実際のところ、“混線”後の酩酊感が、冴えない顔色の原因のひとつだった。


 「“混線”でか?」


 端的な質問が返ってくる。わたしは肯いた。


 「無意識に“混線”してしまったみたいです」


 うっかり“混線”してしまわないように、気を付けてはいたけれど、マナカへの気掛かりは、かえって増していた。


 くるくると回る子犬の尻尾のように快活なマナカ。

 どこにも暗い翳(かげ)りなど見当たらない。

 それなのに、自傷しなくてはならないほど、追い詰められている。


 命の危険はなく、いずれ自傷行為は終息するだろうと、イルマから予告されていても、何故? と思わずにはいられなかった。


 スミとの歪な関係の理由が、そこにある気がしたのだ。

 親友と言いながら、マナカは明らかにスミを虐げている。低く扱い、あざ笑い、無視したかと思えば、気紛れに笑い掛ける。侮っているのだ。スミを。


 一か月前。

 スミはマナカを階段から突き落とそうとした。

 わたしという闖入者の介在で、なんとか最悪の事態は避けられたものの、またスミの感情が振り切れてしまわないとは言いきれない。


 むしろ歪んだ二人の関係からは、鬱屈した不穏な気配が漂い始めている。


 マナカの冷淡な態度に、萎縮してしまっているスミ。恐怖に縮こまったスミの心は、限界まで撓った弓の弦を連想させた。


 このままでは、またスミの感情が振り切れてしまう。


 思ったままの気掛かりを、わたしはタマサカさんにぽつぽつと語った。

 タマサカさんは気難しげに――彼はいつだって気難しげなのだけれど――わたしの話を聞いていた。


 「たぶん、どうしても気掛かりで、これからもマナカと“混線”してしまうと思うんです」


 わたしの説明が終わった。しん、と部屋が静まり返る。

 相変わらず直線的で無機質なタマサカさんの視線は、真っ直ぐにわたしの姿を捉えたままだ。タマサカさんの視線に絡めとられ、わたしはゴルゴンの呪いで石化された哀れな彫像のようにぴくりとも動けなかった。

 窒息しそうになりながら、掌の汗を握りしめて、視線に耐えた。

 長い逡巡のすえ、ようやくタマサカさんが口を開いた。


 「“トレース”するしかなさそうだな」

 「“トレース”……ですか?」


 オウム返しする。我ながら芸のない返答にがっかりしてしまう。

 最初からわたしに芸など期待していないのだろう。タマサカさんは「そうだ」と首肯して広げていたノートをパラパラと捲る。


 「文字として情報量が制限されるぶん負担も減る。夢で“混線”するぐらいなら、“トレース”したほうがましだ」


 イルマには言うな、と言い足して、タマサカさんはノートを差し出した。

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