11 深夜の議事録


   ◆◆◆


 もう混乱はしなかった。

 するすると緞帳(どんちょう)が降りてきて、夢は暗闇に閉ざされた。

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 夢の閉幕を確かめるように、わたしはぐるりと視線をめぐらせた。


 梁がむき出しの天井。

 ひびの入った土壁。

 無造作に立て掛けたキャンバス。

 全部見慣れたわたしの部屋だ。


 自分の部屋で就寝し、夢を見て夜中にふと目が覚める。

 取り立てて珍しい現象ではない。

 わたしの夢ではない、という部分を除いては。


 誰の夢なのかは考えるまでもなかった。

 わたしはマナカの夢を見ていたのだ。


 無意識に彼女の記憶と“混線”してしまったのだろう。


 今日一日――正確には昨日だけれど――大学構内を案内しながら、わたしはマナカの赤い腕時計ばかり見ていた。

 気にするなと言われても、どうしても気になってしまう。

 気掛かりは結局、夢の形をとってわたしを“混線”に導いてしまったのだ。


 夢を介した“混線”は無意識に起こる。“混線”も“トレース”も禁止を言い渡されているけれど、こればっかりはどうしようもなかった。

 夢を見るなと言われても、それが生理現象である以上、当人にはどうしようもできないように、夢での“混線”を回避する術はないのだ。


 わたしは伸びをして夢の余韻を振り払う。ベッドわきの時計は午前二時を過ぎたところ。窓の外は塗りこめたように真っ暗だ。起きるにはまだ早い。


 もう一度眠ってしまおうかと寝返りを打った。首の向きを変えると、ドアの隙間からもれる一筋の光が、視界を掠めた。


 リビングの明かりがついたままだ。

 もう一度時計を見て、針の位置を確かめる。

 やはり時計は午前二時を少し過ぎたところ。


 以前に見た不思議な夢を思い出さなくもなかったけれど、あれとは明らかに異なった雰囲気が、今があの夢の延長ではないことを物語っていた。


 イルマが起きているのだろうか?


 ちらりと思って苦笑する。

 イルマは定刻通りにしか動かず、定刻通りにしか姿を現さない。

 午前零時から午前六時までの間、イルマは真空パックにでも詰まっているのかと訊きたくなるくらい、物音ひとつ立てず自室に閉じこもってしまう。


 イルマのはずはない。


 わたしはベッドから這い出して扉の隙間からリビングを伺う。

 さほど視線を彷徨わせる必要もなく、テーブル席でノートを広げているタマサカさんを見付けた。


 「悪い。起こしたか」


 顔も上げずにタマサカさんが言った。

 いいえ、とわたしは首を振る。


 「わたしこそ遅くなってしまって……」


 ごめんなさい、と尻すぼみに呟いた。

 タマサカさんが広げているノートは、わたしの月報だった。

 アパートに住まわせてもらう対価として、月末に“混線”についての報告書を提出する契約になっている。

 六月の月報をすっぽかして激怒されたうえに、七月の月報も臥せっていたので待ってもらっていた。


 八月に入って一週間。

 ようやく月報が書き上がったとtwonで報告したのは昨晩のこと。

 さっそく報告書を確認しに来たのだろう。


 この部屋の本来の持ち主であるタマサカさんは部屋の鍵を所持している。彼が深夜過ぎにひっそりとやってきて、報告書を確認して帰っていくのは、そう珍しくもなかった。零時過ぎにやってきて、イルマが起き出す午前六時までには引き上げる。必要事項以外は一言も口を利きたくないと言わんばかりに、タマサカさんはあからさまにイルマとの接触を避けているのだ。


 「コーヒー淹れますね」


 わたしはパタパタとスリッパをならして、キッチンへ急ぐと慌てて湯を沸かした。取り立てて急ぐ必要はないのだけれど、タマサカさんという存在が、いつもわたしを焦らせるのだ。


 コーヒーカップをテーブルに並べ、わたしは黙ってタマサカさんの向かいに腰かけた。コーヒーを淹れてしまえば、あとは彼が確認を終えるまで、じっと待つしかない。寝ていい、とタマサカさんは言うけれど、なんとなく気が引けて、結局わたしはいつも明け方まで起きている。


 二人でノートを囲んで、情報の誤りを指摘したり、詳細を訪ねたりして、ひとことふたこと言葉を交わす。あとはずっと無言だった。

 採点を待つ生徒のような、厳かな儀式に立ち会う信徒のような、ピンと張った緊張の中、粛々と時間が流れていく。


 八月の暑さも手伝って、掌がじっとり汗ばんだ。


 日記と大差ない月報ばかりが続いて、自分の不甲斐なさに、居たたまれなくなる日も多い。ここ一ヵ月の目まぐるしさを思うと、少しは胸を張れる気がした。


 その最もたる変化とも言える、絵葉書のように切り離された不思議な夜の夢については、何度も書いては消してを繰り返し、テーブルに大量の消しカスの山を築いた末、結局、月報には書かなかった。


 書くべきではないし、触れるべきでもない気がしたのだ。

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