8 犬猿の仲
「マナカのリストカットシーンと“混線”したんです。彼女は常習的にリスカを繰り返していますから」
身も蓋もなくイルマが言った。
わたしは目を丸くして、イルマをまじまじと見る。
自称宇宙人にして、すべての可能性に遍在するイルマ。
彼にしてみれば地球の円周四万七十五キロメートルの距離も、過去から現在を通過して未来へと繋がる時間の流れも、そんなものは無いにも等しい。
イルマ曰く、すべてが既知、なのだそうだ。
言葉の真偽はともかく、イルマが核心を教えてくれることはほとんどない。
必要以上に干渉してはならない。
それが彼らのマナーでもあるらしかった。
おかげでイルマとの会話は頓智か禅問答にしかならない。
はずなのに――
「前回のダメージでもともと弱っていたところで、“混線”のインパクトが強すぎたのが昏倒の原因です。まだ全快したわけではありませんから」
イルマのとび色の瞳がわたしの姿を映し込んでいた。わたしの背後にある膨大な量の情報を読み取っているのだろう。
「マナカの自傷行為は常習的なものですが、取り立てて命の危険があるわけではありませんし、今後もそのような事態にまでは発展しません。せいぜい傷跡を隠すための腕時計が、リストバンドになったり、長袖になったり、範囲が広がっていくだけです。そしていずれ終息します」
わたしはマナカがつけていた腕時計を思い出す。ショートケーキの苺を連想させる大きな赤い腕時計。あれは傷跡を隠すためだったのだ。
「今日は出だしからずいぶん饒舌だな」
どこか皮肉げにタマサカさんが笑う。
視線で「いいのか?」とイルマに問うていた。
「前回のダメージが大き過ぎました。回復にはまだ時間がかかります。今回は休みましょう」
タマサカさんがちらりとわたしを見る。
さっと視線を滑らせてイルマに振り返った。
「そこまで憔悴しているようには見えないが?」
「表面上、問題はなくとも彼女の脳神経――特に下前頭皮質のミラーニューロンシナプスに深刻な断裂が複数個所発生しています。これ以上の負荷は避けるべきです」
「レセプターの機能不全だけなら、バイオ光子の潜在的読み込みと自動補正で間に合うだろう」
「猫との“混線”時に一次視覚野の一部ニューロンがリセットされましたから、潜在的読み込みによる補正は――」
イルマとタマサカさんの間で、矢継ぎ早な問答が交わされる。
わたしはあっさり会話の内容を見失ってしまった。
大抵の場合、彼らの会話は常人の理解の埒外にある。
入り込む余地もなさそうで、わたしは壮絶なテニスラリーを観戦するギャラリーのような心境で、二人の会話を聞いていた。
「それで貴重なターンを失う結果になってもか?」
「何をさしての貴重なのかによります」
「お前の目的は記憶の回収だ。それ以外はどうでもいい。違うか?」
違いません、とイルマは続ける。
「僕の役割は記憶の回収です。僕は何を差し置いても、より多くの記憶を回収可能な路に彼女を誘導します。それは貴方の利害と一致しているはずです」
ひたり、とイルマがタマサカさんを見つめる。タマサカさんは口を一文字に引き結んで押し黙った。
「これ以上の負荷が掛かれば、記憶の回収は最短で終わることでしょう」
英文和訳のようなおかしなイルマの文法。
タマサカさんが苦笑する。
「予告はいらんから策を練れ、策を」
「おっしゃる通りですが、それなら野次もいりません、野次も」
「野次ではなく対案だ」
「怠慢の間違いでしょう」
尖った言葉のやり取りが続く。
雲行きが怪しくなってきて、わたしはそっと溜息をもらした。
何故だろうか。
二人はすごく仲が悪い。
イルマに好悪の感情があるのかどうかは別として、少なくともタマサカさんがイルマを毛嫌いしているのは確かだった。
イルマを連れてきたのはタマサカさんだけれど、当のタマサカさんは1ミリもイルマを信用していないのだ。
大声で言い争うわけでも、罵り合うわけでもない。
冷たく、静かに、それでいて断固として弾き合う同極の磁石のように、二人は反目しあっていた。
まるで冷戦時代のアメリカとソビエト連邦のように。
「いいのかな?」
わたしはソファに横たわったまま、ぽつんとイルマに問い掛けた。
額にのせたタオルが冷たいままなのは、帰り際にタマサカさんがタオルを取り換えていってくれたからだ。
冷たいタオルに取り換えると、タマサカさんは無言のまま帰っていった。
結局、二人の間でペレストロイカは起こらなかった。
「休養」案を受け入れたタマサカさんの表情には、親和性とはかけ離れた不穏な気配しかなかった。
「タマサカさん、怒ってなかった?」
「仕方ありません。他に選択肢はありませんから」
「わりと元気なんだけど」
「わりと危篤です」
わたしは息を呑む。こんな情け容赦ない告知も珍しい。
「地球の寿命に比べれば、ですが」
「スケール感おかしいから……」
がっくりと項垂れる。
紛らわしい。イルマの話しはいつだって当てにならない。
脱力のあまり、額のタオルがずり落ちてくる。
タオルの位置を直しながら、ふと自分の手首に目がとまった。
白い手首に青と紫の静脈が透けている。
ぱっくりと裂けた桃色の切り口。
“混線”で見たマナカの手首と自分の手首が重なって見えた。
「いいのかな?」
同じ問い掛けが、口を突いて出てしまう。
イルマは命の危険はないと言うけれど、リストカットしなくてはならない何かが、マナカにはあるのだ。知っていて放って置くのは気が引けた。
「彼女のことなら心配ありません。今は自分の休養を優先してください。偶発的な“混線”は仕方ありませんが、 “トレース”と恣意的な“混線”はしばらく厳禁です」
相変わらず飄々とはしているけれど、断固としたイルマの口調には、有無を言わせないものがある。
わたしは再び口を噤んだ。
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