9 ブリキ人形



「おはようございます」


 スミが会釈をして、マナカが元気に手を振る。大学の正門前で、スミとマナカがわたしを待っていた。「おはよう」とわたしも二人に手を振り返した。


 ――大学構内を見学したい。


 そうスミとマナカから連絡を受けたのは、デッサン会の三日後だった。

 既に学校のパンフレットは渡してあるけれど、実際に赴いてキャンパスの様子を知ったほうが、受験へのモチベーションもあがる。


 わたしは二つ返事で翌日の午前中に二人を案内する時間を設けた。


 ジワジワと鳴くセミの声を聞きながら、彼女たちと一緒にまだ朝の湿度が残る構内を、ゆっくりと歩いた。


 見上げるほど巨大な彫像が並ぶ中央棟のエントランス。大学と聞いて真っ先にイメージしそうな階段状の大講堂。意外なくらいこぢんまりとした、そしてたぶん高校のそれと代り映えしない教室や食堂。


 閑散とした夏休みの構内で、三人の話し声がやまびこのように木霊した。あれこれと質問するマナカの左腕で、赤い腕時計が揺れている。


 華奢な手首には不釣り合いな大きさの腕時計。


 案内しながら、ちらちらと赤い腕時計に目がいってしまう。「休養」を言い渡されていても、やはりマナカの様子が気掛かりだった。

 マナカはひっきりなしによく喋った。

 瞳はくるくるとよく動き、大きな口を開けて楽しそうに笑う。大人しいスミよりもマナカのほうが、ずっと快活で元気そうだ。

 とても悩みがあるようには見えない。


 「これ、なんですか?」


 子犬のような黒い瞳を丸くして、マナカが言った。

 彼女が指さした先に、棟と棟の連絡通路を半分塞ぐようにして、巨大なオブジェが立ち憚っていた。学校の教室にある机や椅子が、出鱈目に組み上げられた物々しい様子は、まるでバリケードのようだ。


 「前衛アート――だね」


 ぼやけた口調でわたしは説明する。

 壁画のような大作や、意味不明な巨大オブジェが、置き場所に困った末に、捨て置かれていたりする光景はまさに美大ならではで、そのひとつひとつに明確な解説を付けるのは、現役の学生でも難しい。


 特に常識へのアンチテーゼを掲げる前衛アートは、作った当人たちでさえ、それがアートなのか粗大ごみなのか、ときどき判断に悩まさられる。

 曰く、その悩ましさこそがアンチテーゼなのだそうだ。


 「SHIELDってサークルがつくった、オブジェらしいよ」

 「何か……主張してるんですか?」


 マナカに訊かれ、わたしは曖昧に頷く。

 芸術家を志す美大生とはいえ、もちろん一枚岩ではない。

 便座をあつめて巨大なオブジェを作るファンキーな者もいれば、ペンキを全身に塗って巨大な紙にダイブするダイナミックな者もいるし、ひっそり静かに絵ばかり描いているステレオタイプもいる。

 古典的な油絵をオーソドックスに専攻しているわたしには、アヴァンギャルドを標榜して猛進する一群は、あまりよく分からない世界だった。


 「変わってます……ね」

 「ここでは『変人』が最大級の褒め言葉みたいだよ」


 わたしは肩をすくめてみせた。




 バリケードを抜けて、B棟二階にあるいつものアトリエでキシと合流した。

 グループ展への出品作に手間取って、課題が遅れているキシは、相変わらずアトリエに缶詰だった。彼には夏休みもないらしい。自らの画材に囲まれ、今日もキシは黙々と籠城している。


 絵具を入れた木箱。筒状の筆入れ。ステンレスのバケツ。立て掛けられた巨大なパネル。乱立するイーゼルと丸椅子。


 画材とモチーフがところ狭しに並んだアトリエは、部屋そのものがひとつの巨大な道具箱のようだ。木材の匂いに交じって、キシが使っているポピーオイルの匂いがした。見慣れた光景のはずなのに、女子高生二人という観客を前に、急にアトリエの散らかりようが気恥ずかしくなる。わたしはガタガタと音を立ててイーゼルやバケツを壁際に追いやった。


 「あの」


 バケツを棚の下に押し込んでいると、背中越しにスミの声が掛かる。彼女から話を切り出すのは珍しい。「うん?」とわたしは振り返った。

 スミはもう一度「あの」と繰り返す。次の言葉が出てこないまま、スミは肩に掛けていたトートバッグの中に手を突っ込んだ。ごそごそと腕を動かす。中で引っかかっているのか、なかなか出てこない。


 「あの」「あの」と呟き続けるスミの頬が、みるみる赤くなっていく。自分のもたつきを恥じているのだろう。もたつけばもたつくほどバッグの中身は絡まっていくように見えた。

 とうとうその場に座り込んでバッグを漁りだす。

 スミの耳は真っ赤だった。


 「どんくさいなぁ」


 辟易した様子で、マナカがスミの隣にしゃがみ込む。マナカが手の伸ばすと、トートバッグに嚙みつかれでもしているのかと思うくらい、なかなか出てこなかった中身があっさり姿を現した。


 「……お弁当。よかったら」


 彼女たちから差し出されたのは、お弁当箱だった。


 「みんなのぶん、ありますから」


 そう言って、それぞれ色の違う巾着袋に入ったお弁当箱を、順々に机の上に並べていく。赤。ピンク。オレンジ……。最後に取り出した水色のお弁当箱を、スミはキシに掲げてみせる。


 「どれぐらい食べるのか分からなくて」


 ほかよりもひとまわり大きなお弁当。

 水色の巾着袋は新品なのか糊がパリっときいていた。

 ゆっくりと歩み寄り、スミはキシにお弁当を差し出す。


 緊張しきったスミの動作は、まるで潤滑油のきれたブリキ人形のようにぎこちなくて、ギクシャクと音が聞こえてきそうなくらいだ。

 分かりやすいなぁ、と思いながら、わたしはついつい苦笑いしてしまう。


 きっとわたしも人のことは言えない。

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