21 白夢
「タマサカさん?」
返事が無い。
頬に掛かった睫毛の影は、ぴくりとも動かなかった。
わたしは呆然とした。
「……タマサカさんでも居眠りするんだ」
声がうわずってしまう。動揺のせいだ。ただの居眠りで、こんなに誰かを驚愕させられる人も珍しい。
予想外の事態に驚嘆してしまったものの、考えてみれば当然だった。十日間も続いた深夜の“トレース”作業。疲弊しはじめているのはわたしだけではない。タマサカさんも同様なのだ。
「どうしよう……」
オロオロと辺りを見回し椅子から立ち上がる。足早にソファに歩み寄って、丸めてあったシーツを掴んでテーブルに戻った。
八月の暑い盛り。その必要もない気はしたけれど、タマサカさんの肩に希少種の蝶を捕獲する投網のような注意深さでシーツを掛けた。
指先がタマサカさんの首筋に触れる。
その瞬間、あ、と息を呑む声が聞こえた。
たぶん自分の声だったのだろう。
確かめる暇はなかった。
瞼の裏で光が弾けて、目の前が真っ白になる。
◆◆◆
名前を呼ばれた。
そんな気がして振り返った。
女が立っていた。
顔はよく見えない。
視界がひどく悪いのだ。
霧の中のように視界は白く、全てが曖昧だった。
ふっくりとした唇が動いて、彼女が微笑んでいるのだと知れる。華奢な肩を胸まである長い髪が、サラサラと音を立てて流れた。
はっと胸が痛くなる。
白く細い首に、一筋の傷跡が見えた。
左耳の後ろから鎖骨にかけて、首をうがつ歪な傷跡。ひきつった皮膚は薄く、危うい白さが、あまりにも痛ましい。
ゆっくりと手を伸ばし、そっと傷跡に触れた。
彼女は口の端を歪め、困ったように苦笑すると、傷に触れる指先を、両手で包み込んで頬を寄せた。
胸に感情が込み上げる。
それは涙の温度をしていた。
◆◆◆
「セマ!」
がっしりと腕を掴まれ、傾きかけた身体が止まる。もんどりうちそうになりながら、その場にすとんと尻餅をついた。
わたしは腰が抜けたように呆然と座り込んでいた。腕を固く握ったまま、タマサカさんがわたしを見ていた。
なにがあっても――たとえ日本がまるごと沈没しようとも――こゆるぎもしないであろうタマサカさんの顔に、はっきりと驚きの表情が刻まれている。
しばらくお互いに無言で視線を交わした。
タマサカさんの眼に「見たのか?」という確信に等しい問いが含まれていて、わたしは罪悪感で何も言えなくなってしまう。
“混線”したのだ。
タマサカさんの夢――記憶と。
“混線”にも相性があるから、人によって感度にはむらがある。時にはまったく“混線”できない異質な者もいた。
わたしが知る限り最も“混線”から断絶された存在。
それがイルマとタマサカさんだった。
彼らの思考と記憶は、その実在さえ疑わしい程、わたしには見えなかった。
はずなのに――
「……ごめんなさい」
記憶を覗いてしまって。
謝罪の言葉が口から零れた。
タマサカさんは何も答えず、黙ってわたしを見ていた。
わたしの目をじっと覗き込む彼の姿は、わたしの瞳の奥から何かを読み取っているようにも見えた。
長い長い逡巡の末、ようやくタマサカさんは首を横に振る。安堵したような、失望したような、どちらとも言えない緩慢な動きだった。
「気にしなくていい」
ゆっくりと腕を引いてわたしを立ち上がらせる。
彼は虚空に視線を逸らして、呟いた。
「忘れてくれ」
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