20 居眠り
◆◆◆
覚えのある言葉に行き当たり、不意に手が止まる。なんとなく気になって、わたしはノートをパラパラとさかのぼった。
深夜の“トレース”が始まって十日目。わたしはすっかりルーティンワークになった自動筆記を続けていた。
もちろんテーブルの向かいには、補佐役のタマサカさんの姿もある。相変わらずタマサカさんは不動の体勢を崩さない。頬杖をついて心なしか俯いた姿は、ロダンの彫像のように泰然としていた。
“トレース”を読み返し、わたしはそっと嘆息する。
みっしりとノートに綴られた文章。
文字はマナカの目を通して見る、日常の風景で溢れていた。高校二年の春から始まり、断片的な記憶の欠片を拾いながら、ゆっくりと現在に向かって進んでいるようだ。ちょうどスミが少女たちの輪から弾き出される少し前の時期にあたる。
嘆息の原因はそこにあった。
以前の“トレース”で、わたしはこれからスミの身に何が起きるのかを知っている。そしてマナカがどんな態度を見せるのかも。
少女たちがスミに示した拒絶の態度。
酷薄な笑みを浮かべるマナカ。
スミの目を通して見た情景が思い出されて、あの時の息苦しさがよみがえる。正直なところ 積極的に“トレース”したくなるような内容ではなかった。
それに――
「ぜんぜん原因が分からない……」
わたしは肩を落としてノートを閉じる。何度も読み返したマナカの記憶は、もう暗記してしまっていた。どれだけ読み返しても、マナカの懊悩の原因が分からない。
最初にマナカと“混線”して以来、一度も彼女の自傷行為の記憶を拾えていないのだ。もちろん、リストカットシーンに遭遇したいわけではないけれど、マナカが抱える問題を探し出さなければ、対策すら取れない。
このままではスミの感情が振り切れてしまう。
不安は焼け付くような焦りに変わりつつあった。なのに “トレース”のペースは亀の歩みよりものろいまま。休憩ばかり挟むので実質の作業時間は一晩で一時間程度でしかない。
タマサカさんはそれ以上の時間を、決してわたしに許さなかった。
「休養」が必要な今、これ以上の負荷は掛けられないというタマサカさんの配慮は分かっているし、感謝もしている。
それでもちっとも進まない“トレース”が、じれったくて仕方がなかった。もう少し時間を増やせないかと、タマサカさんに提案してみたけれど、タマサカさんはあっさりと、そして断固として、わたしの案を却下した。
タマサカさんにとって、今回の“トレース”強行は、無意識にマナカと“混線”してしまうわたしの不安を昇華するのが目的なのだ。
彼は“トレース”の内容や二人の少女の命運に、全く興味を示さなかった。
それはなにもスミやマナカに限ったことではない。
誰のどんな記憶だろうとも、“混線”の精度や状態を探る指標として以外、タマサカさんはなんの意味も見出していなかった。
タマサカさんの関心はわたしにしか無い。
そう言ってしまうと、まるで熱烈な思慕のようにも聞こえるけれど、もちろんそれは誤謬以外のなにものでもなく、正確に言えば、彼はわたしの能力にしか関心がないのだ。
自分と他人の境界を見失って“混線”してしまうわたしの能力。その能力を高度に熟達した極みへと導くこと。
彼の尽力はその一点に注がれている。
この一年というもの、タマサカさんは忍耐強く――時には叱咤激励を交えつつ――“混線”精度の向上を目指して、膨大な時間と労力を割いてきた。
献身的とさえ言える支援を受けてきただけに、“トレース”内容に興味を示さない彼の態度を冷淡だと言って責める気にはなれなかった。
どうしてそうしてまでして、わたしに“混線”を極めさせたいのか。
「世界を見たくないか?」というタマサカさんの問い掛けに、「はい」と返事をしておきながら、ときどき疑問に思ってしまう。
もちろん、疑問をそのままタマサカさんに投げかけたことも何度かある。
タマサカさんは決まって、「世界を見せたいからだ」と答えた。
短くて簡素な答え。れでは何も分からない。
気にはなったけれど、追究は許されなかったし、なにかと忙しそうなタマサカさんを見ていると、これ以上煩わせるのは気が引けたて、わたしは結局、何も訊けなくなってしまうのだ。
「タマサカさん」
わたしは意味もなく見つめていたノートの表紙から顔を上げた。
「ちゃんと――」
――休んでますか?
問い掛けは最後まで言い終わらないまま、虚空に消えた。
連日連夜、テーブルの向かいに腰を据え、明け方までまんじりともせず補佐役を務めてきたタマサカさん。
その彼が頬杖をついたまま目を閉じている。
ロダンの彫像のような姿勢と、泰然とした空気に変わりはなかったけれど、気配で伝わる呼吸は静かで規則的だった。
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