18 夜明け
夜は西の空の淵から音もなく去った。
東の空に白々とした朝が訪れ、実直な柱時計が午前七時を報せる。
わたしは短い眠りから目覚めた。
もうタマサカさんはいない。
彼は六時の鐘を聞く前に、夜と一緒に引き上げてしまう。夜がいつの間にか朝にすり替わってしまうように、気が付くとタマサカさんは居なかった。
前日より文字数が増えたノート。
テーブルに放置された鉛筆。
空のコーヒーカップ。
そうした僅かばかりの痕跡がなければ、タマサカさんが居たことさえ疑わしくなるくらい、夜と朝の境界はいつも曖昧だ。
ともかく眠かった。
八月の真っ只中。
大学は休みだしゼミもない。
どうせなら昼まで寝ていたいところだけれど、お盆だというのに絵画教室のバイトが午前九時から入っている。
おちおち寝ているわけにもいかず、通常の三倍の重力を感じながら、重たい身体をベッドから引き剥がす。足首に絡まったシーツをずるずると引き摺って、わたしはリビングに這い出した。
「おはようございます」
「おはよう」
声だけでイルマと挨拶を交わす。
イルマはテーブル席でご飯を食べていた。
ご飯――文字通りお茶碗に盛った白いご飯のみの朝食。お茶を除けば、おかずはおろか漬物さえない。
「おかずがありません」と見れば分かることをイルマが言う。
金欠と寝不足で買い出しを怠っていたせいで、我が家の食材は白米を残して底をついていた。わたしは肩をすくめて苦笑いする。
「おかず――塩じゃだめ?」
苦肉の策での提案。「もうふってます」とイルマは食塩の瓶を白米に振り掛けて見せる。なんだかわびしい光景だった。
「辞書で調べたんですが、こういうのをヒモジイって言うらしいです」
「辞書で調べなくてもヒモジイだと思うよ」
「web検索でも一万三千件のヒモジイに該当しました」
「そんな検索ワードあるの?」
イルマと軽口を交わしながら流し台で顔を洗う。タオルで顔を拭いて、炊飯ジャーの中を確かめた。
案の定、ジャーの中は空っぽだ。
昨日のうちに予約で五合炊いたはずなのに。
イルマにとって五合の白米はオードブルにしかならない。イルマが一日に必要とする摂取カロリーは一万キロを超える。そんなカロリーを賄いきれるほど裕福ではないから、イルマはいつもひもじがっていた。
ここ最近、少し痩せたようにも見える。
「カロリー足りてない?」
心配になって問い掛けると、イルマは「はい」と肯いた。
「せめてあと三千キロは必要です」
「……せめてって」
それだけでも成人男性の一日の平均カロリーを超えている。比喩でも誇張でもなく、イルマは文字通り底無しの大食漢なのだ。
そのうえ生活に関わる煩雑な役割のすべてを放棄し、余暇のほとんどを窓辺で日向ぼっこをして過ごすから、どう見ても猫か怠け者にしか見えない。
この一年というもの、わたしは彼の怠けぶりに不平不満を並べ立ててきた。その都度イルマは要領を得ない頓智のような説明を繰り返した。
不毛なまでに入り組んだイルマの弁明をわたしなりに翻訳したところ、どうやらそれは「全知ゆえの代償」であるらしかった。
全ての可能性に遍在するイルマ。
『知』に限って言えば万能のように見えるイルマだけれど、その万能を維持するためには、色々と苦労が絶えないのだそうだ。
望むと望むまいと、そうせざるを得ない制約。そうした見えない鎖がイルマには無数に存在するのだ。
心なしかやつれたイルマを見ると胸が痛んだ。
わたしはご飯を諦め、ジャーの蓋を閉じる。
どのみち寝不足で食欲もなかったから特に惜しくもなかった。
結局、コップ一杯の水を朝食がわりにテーブルについて口をつける。
今日一日の予定を考えた。
今日は土曜日でスミの補習はない。
午後からは自由時間だから、食材の買い出しに丁度いい。
「午後から買い出しに行くけど、リクエストある?」
なんとなく訊いてみると、イルマは「塩以外で」と即答した。
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