25 不在
◆◆◆
だから“ワタシ”は泣くのをやめた――
文字を綴る手が止まった。
実直な執事が三度も咳払いをして、わたしを呼び止めたのだ。
反射的に顔を上げ、実直な執事――柱時計を見やる。
針は午前三時を示していた。
わたしはルーティンと化した深夜の“トレース”を続けていた。ただし、テーブルの向かいは空席のまま。イルマはもちろん、タマサカさんの姿もない。
テーブルの隅に置いてあったスマホを引き寄せ、メッセージアプリを開く。強張った指をもどかしく思いながら、画面を確認した。
今日は来れませんか?
絵文字もなにもない簡素な質問。二時間前、一向に現れないタマサカさんへ送ったわたしのメッセージ。投げかけた問いは未読のまま放置され、所在無げな文字が画面の中央で途方に暮れていた。
深夜の“トレース”を決めてから今日で十一日目。
毎晩、タマサカさんは午前一時までにはアパートに顔を出した。
遅れる時も、すぐに帰らなくてはならない晩も、なにかしら連絡はあったはずなのに、今日に限ってなんの音沙汰もなかった。
――やはり怒っているのだろうか?
昨晩のことが気に掛かる。
タマサカさんの記憶を垣間見てしまった。悪気はもちろん、なんの含みもなかった。ただうっかり、としか言いようがない。
まさかタマサカさんと“混線”するとは――それが可能だとは、思いもしなかったのだ。気にしなくていい、とタマサカさんは言ったけれど、やはり見られて嬉しいものではないだろう。
記憶の中――胸に込み上げた涙の温度。
その感情の名前をわたしは知っている。
言葉にしてしまうのは気が引けた。
きっと大切な記憶なのだ。
誰かに踏み込まれたくはないだろうし、踏み込むべきでもない。
出来る限り、そっとしておきたかった。
そうは思うものの、全く考えないでいるもの難しい。課題の予定を立ててみたり、明日の献立を考えてみたり、あの手この手と頑張ってはみても、気が付けば気持ちはいつも同じところにいってしまう。
彼女はいったい誰なのか。
やはりタマサカさんは怒っているのかもしれない。
もしかしたら傷つけてしまったのではないだろうか。
結局、同じ考えに囚われ、ぐるぐると不毛な堂々巡りを繰り返した。
不安と一緒に刻々と刻まれる時計の針。
一向に現れないタマサカさん。
放置されたメッセージ。
もう今晩は来ないのだろうとは思っても、さっさと寝室に引き上げる気にもなれず、わたしは救援を待つ難破船のように、タマサカさんを待ち続けた。
じれる気持ちで、胸と胃がキリキリした。
十分に一回はアプリを開いて未読のメッセージを確認した。
その十分が五分になり、五分が三分に、三分が一分になったところで、ただ待ち続けるという寄る辺なさに耐えられなくなって、わたしは衝動的に鉛筆を握ると、脇目もふらずに“トレース”を開始した。
補佐なしでの“トレース”は禁じられていたけれど、このままジリジリと夜明けを待つよりは、よほどましに思えたのだ。
それに亀の歩みよりものろい“トレース”に、痺れを切らしてもいたから、好都合と言えなくもなかった。不安にざわついた心は、陽光から身を潜める深海魚のように、深く深く集中の底へ沈んでいける。
この機を利用すれば、スミとマナカの関係を歪にしている、問題の核心に辿りつけるかもしれない。
事実、衝動的に強行した“トレース”には、確かな手応えを感じた。ノートを読み返して、その確信が強まる。
わたしは実直な柱時計をパートナーに、 “トレース”を再開した。
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