33 青空


 「もっとちゃんと休んでいいんですよ」


 キッチンからイルマの声がした。

 ひやかしの口真似のように聞こえて、むっと顔を上げる。カウンター越しに包丁でレモンをスライスするイルマの姿が見えた。イルマの透明な表情には、なんの感情もなかった。湖面のように静かだ。


 “混線”から断絶されているイルマの感情は読めない。

 そもそも感情が存在するのかも分からない。


 自己申告によれば、人間的な感性は存在しないのだと聞いてる。

 透明なはずのイルマの言葉に、むっとしてしまうのは、疲れているからなのだろう。気持ちがささくれ立っているのは、わたしのほうなのだ。


 “混線”を通して、たくさんの感情が、わたしの中を通り過ぎていく。

 まるで分厚い革のブーツを履いた巨人が、頭の中をドカドカと走り抜けていくようなけたたましさだ。そのたび、わたしの心は揺さぶられ、上を下への大騒ぎで右往左往したあげく、最後にはヘトヘトになってしまう。

 疲れ切った心にイルマの静かさは心地よかった。わたしは詰めていた息を吐く。軽くのびをして背中をならした。


 「結局――」


 のびをしながらぼやく。


 「――マナカのリスカシーンは出てこなかったみたい」


 女の子の心は一筋縄ではいかない。

 まだまだ“トレース”は長引きそうだ。


 「でも、歪みの原因はだいたい分かったでしょう」


 それで充分ですよ、とイルマが言った。これ以上の“トレース”は控えるべきです、という小言も忘れずに。

 “トレース”の強行について、タマサカさんから箝口令を敷かれている中、この話題を持ち出すのは不適切なのかもしれない。けれども、どうせ黙っていたところで、イルマには筒抜けなのだ。

 わたしは構わず続けた。誰かと話したかった。


 「空は泣かない――青空が残酷に見えるなんて知らなかった」


 綺麗なのに、とわたしは窓の外を見る。

 浅葱色をした早朝の夏の空を、銀色の雲がゆったりと流れていく。


 「空に罪はありません。マナカが背負った業です」


 青空に、スミに、残酷さを見出して疎まずにはいられない、マナカの業。このまま一緒にいても、傷つけ合うことしか出来ない二人。


 「二人は一緒にいるべきじゃないのかもしれないね」

 「それは貴女が決めることではありません」


 ぴしゃりと言って、イルマはわたしの前にコップを置いた。コップの中で涼し気な泡が弾けている。カラカラと氷が鳴った。


 「……レモネード?」


 わたしは目を丸くする。

 心底、驚いた。

 イルマがレモンをスライスしていたのは、わたしにレモネードを出すためだったのだ。頼まれもしないのに――頼まれても――イルマが何かをしてくれるなんて、熱で臥せっていた時以来の僥倖だった。


 「イルマ――熱でもあるの?」

 「熱があるのは貴女のほうです。疲労のせいでしょうね」


 わたしは自分の額に手を当て確かめる。そういえば熱っぽい。


 「こうなるのは知っていましたが、私にも多少なりとも良心の呵責というものがあったのは驚きでした」

 「分かるように説明できない?」


 相変わらず要領を得ないイルマの説明に渋面してしまう。イルマは向かいの席に腰を下ろすと、しばらく虚空を眺めていた。何かマニュアルでも読んでいるような間があいて、口を開く。


 「実は昨日、タマサカから『今晩は行けないから“トレース”は休んでいい』と伝言を預かっていたのですが」


 なにせ、と残念そうにイルマは首を横に振る。


 「私は“トレース”に関して、知らないふりをしなくてはならないという建前があったので、貴女には何も伝えずに就寝しました。制約に矛盾するという理由もありますが、九割方、蚊帳の外にされたことへの嫌がらせです」


 「もう少しオブラートに包めない?」


 怒る気にもなれず、わたしは脱力した。逆にただの嫌がらせだと認めるイルマのストレートさに感服したくらいだ。

 そして言伝を知らず、半ば自棄で徹夜したわたしの、草臥れ果てた姿を目の当たりにして、多少ならず悪いことをしたと反省したらしい。

 言われてみればイルマの横顔が、陽光の加減によっては、心なししょんぼりして見えなくもない。


 「あるんだ。イルマにも。良心の呵責が」

 「痒い程度には」


 良心の呵責は痒くなるものなのだろうか。

 しかもイルマの主語がおかしい。

 いつもは“僕”のはずなのに“私”になっていて、思わずふき出してしまう。


 タマサカさんはちゃんと伝言してくれていたのだ。そして、イルマにも痒い程度には良心があるらしい。


 何故だか可笑しくて、

 わたしは声を上げて笑い出した。



   GIFT 6  (了)

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