第5章:笑ってください
5:笑ってください 1
セフィーが回廊の
シャムシャは血の気が引くのを覚えた。セフィーに慌てて駆け寄った。
やはりまだ本調子ではないのだ。まだ仕事に復帰できるような調子ではなかったのだ。
そう思って焦ったが、
「セフィーっ」
「ふぁ?」
名前を呼ばれて顔を上げたセフィーは、怪我をする以前と変わらぬ様子できょとんとしていた。いつも白いのでだいぶ分かりにくいが、一応、特別顔色が悪いわけではなさそうに見える。
「あ、いや……調子が悪くてしゃがみ込んだのかと」
「へぁ。いえ……」
セフィーが両手を持ち上げる。回廊の脇を流れる水路から濡れた大判の布が出てくる。
「ちょっと、洗い物を……」
胸を撫で下ろした。「紛らわしいことをするな」と言ってセフィーの頭をはたいた。セフィーが「ごめんなさい」と呟くように言った。
「洗濯か」
「はい」
言いつつふたたび水路に布を浸す。
「自分の服か?」
「そうです」
「他のものと一緒に洗えばいいのに。なぜ、それだけを別に?」
また、自分が触ると汚れる、などと言い出すのではなかろうか。いい加減卑屈になるのをやめさせなければならない。聞いているシャムシャの方も気分の良いことではないのだ。
そんなことを考えていたシャムシャの予想に反して、セフィーは「血だらけだったので」と答えた。
「血?」
「怪我をした時に着てたんです」
再度セフィーが布を持ち上げた。
「でも、ほら。もうちょっとできれいになりそうです」
心なしかセフィーの声は嬉しそうだ。
ほっと、息を吐いた。
セフィーから返事が返ってくる。セフィーの声が明るい。
今、セフィーの周りには、セフィーにとって怖いもの恐ろしいものが何もない。シャムシャをも恐れていない。
シャムシャはセフィーの隣に腰を下ろしてあぐらをかいた。
セフィーが安心できる世界はシャムシャにとっても安心だ。
セフィーの白い手が服を絞る。それを隣で眺める。
「……ん? あの時着ていた服なのか?」
確か背中の部分を大きく斬られたはずだ。
「破れているのでは? 着られる状態ではないだろう?」
セフィーが首を縦に振る。
「縁起でもない。捨てろ」
「ルムアにもそう言われたんですけど……、でももったいないです、フォルザーニーのおうちで仕立ててもらった、とてもよい生地のお着物ですのに……」
「いくらでも次を買ってやる」
「はい、ありがとうございます。けど、でも、えと、これは、裁って、使える部分を縫い合わせて、別のものを作るんです」
シャムシャは眉をひそめた。
「お前、裁縫もするのか? 男のくせに」
セフィーが目で見て分かるほど震え上がった。
彼は今日も今洗われているものと同じ色、同じ型の女官服を着ている。
「お前、そんな調子で男として恥ずかしくないのか?」
セフィーが困ったように微笑む。その笑顔は可愛らしい。けれどいくら可愛くてもセフィーは男だ。シャムシャは苛立ちを覚えた。
「どっちだ、男ならはっきり言え」
「ご、ごめんなさい……」
「謝れと言っているのではない。恥ずかしくないのかと聞いている」
セフィーは、シャムシャの顔から地面へ、その紅い瞳を動かした。伏せられた白い睫毛は長く滑らかな頬に影を落としている。整った白い面はまるで陶器のようだ。
一目で彼が男だと気づく人間はおるまい。
つい見惚れてしまっていたシャムシャに、セフィーがだいぶ経ってから「ないです」と答えた。
「本気か?」
セフィーが肩を震わせてまたもや「ごめんなさい」と言う。シャムシャは舌打ちをした。セフィーはいつもこんな調子でなかなか会話が進まないのだ。
「恥ずかしくないのか? 本当に? なぜ?」
「あんまり、自分が、男、とか、女、とか、考えたことがなかったので……」
「そんなことありえるものか」とシャムシャはなじった。性別は人間の生と切っても切り離せないものだ――そうシャムシャは思ったのだが、
「今まで言われなかった、から……。ぼくを見る人は、まず、男か女か、では、なくて……白い、ってことだけ、言う……ので……」
それはシャムシャにも経験のあることだった。周囲の人間にとって大事なのはシャムシャの性別ではなく髪の色だ。だから自分は王位にいるのである。
「だからぼくも、自分で自分のこと、男かどうかとか、どうでもよかったんです。それで、ナジュム様に女装していなさいと言われた時も、ほんとに何にも思わなかったわけじゃないんですけど、そんな、強く言うことじゃないな、って、思っちゃって」
「だからナジュム様をそんなにお叱りにならないでください」と言われた。シャムシャはまた舌打ちをした。セフィーは自分自身のことは悪く言うくせにひとのことは庇う。それも今回の相手はあのナジュムだ。つい、「あいつにすべてをなすりつけて責任逃れをしろ」と言ってしまった。セフィーがまた曖昧に微笑んだ。
セフィーが男であることを知った時のことを思い返す。
シャムシャはセフィーから彼に女装を要求したのがナジュムであることを強引に聞き出した。そして、「お前ら並べてひどい目にあわせてやるからな」と吐き捨てた。セフィーとシャムシャから顔を背け無関係を装ったライルとルムアの薄情なことはこの上ない。
シャムシャは本当に悔しかったし悲しかったのだ。女の子だと思っていたから大切にしていたというのに、自分はまんまと騙されていたわけだ。
セフィーがシャムシャに観察されながら洗い物を再開する。裂けた女官服を揉み洗いする。艶めかしいほど白い頬や男性のわりには華奢な肩にマグナエからはみ出た白い髪がかかっている。
セフィーの、白い手が、服を洗っている。
水路に右手を突っ込んでセフィーの左手をつかんだ。
セフィーの手は、ルムアのどこか丸みを感じられる小さな手ともライルやラシードの剣だこのあるごつごつとした大きな手とも違う。指が細くて長い。
自分の手は、ライルやラシード同様、剣を握ることに慣れていた。華奢なセフィーの手よりごつごつしている気がした。
「陛下?」
セフィーが手を止めた。シャムシャに驚いた目を向けた。
可愛い。和む。癒される。
あぐらに組んでいた足を解き、伸ばした。それから、体を、右の方――セフィーの方へ、傾けた。
肩に頭を乗せてみる。腕と腕が触れ合う。温かい。
セフィーはおとなしかった。何もせずに黙っていた。
性別などどうでもいいではないか。そんな些細なことは何でもいい。大事なのは今この瞬間自分がセフィーを独占しているということだ。自分だけがこうして好きにセフィーに触れられる――それが途方もなく心地良い。
太陽は今二人の頭上にある。しかしこの回廊には屋根があってここは日陰だ。涼しく快適だ。
ずっとここでこうしていられたらいい。
「陛下」
「手が……、御手が汚れてしまいます」
「シャムシャと」
「え?」
「シャムシャと、呼んでほしい」
そっと、目を閉じた。
「それが私の本当の名だ。お前にもそう呼んでほしい」
そこでふと、シャムシャは思った。
そう言えば、セフィーも明らかに女性ものの名前を名乗っていた。しかも、白を意味するセフィードに母音をつけただけの名である。なぜ偽名だと気づけなかったのか不思議なくらいのおかしな名前だ。
「お前の本名は? お前、前に女性名を使っていただろう」
セフィーが「ああ」と頷いた。
「セフィードです」
シャムシャは目を丸くした。
「本気か?」
セフィーもまた戸惑った様子で「はい」と答える。
「生まれてすぐ、母がそうつけてくれて以来、十七年間、セフィード、ですけど」
背筋が寒くなった。彼の本名はまさしく『白』なのだ。犬や猫に名付けるのと同じだ。
シャムシャはセフィーを孤児であると聞いていた。セフィーの白さや美しさは金になると思った誰かが誘拐して売り払って以来あちこちで奴隷として扱われながらここまで流れてきたのだと勝手に思い込んでいた。
ひょっとして、セフィーには、母親の記憶があるのだろうか。自分の息子を犬猫と同じように扱う母親が傍にいたのだろうか。
「酷い親だな」
けれどシャムシャは知っている。世の中にはいろんな母親があるものだ。
ルムアの母親のように、意に沿わぬ妊娠で生まれた娘でも夫に離縁されても育てた情の深い母もある。ライルの母親のように、気の優しい息子を蛮勇が割拠する草原の覇者に育てようと厳しくしつけた母もある。ナジュムの母親のように、いつまでも少女のように夢見がちで大きくなった息子に甘える母もある。
自分の腹を痛めて産んだのではない夫の娘を男たちの政治の陰謀から守ろうとして夫に抹殺された母もあれば、自分の腹を痛めて産んだ娘を金と地位欲しさに息子だと偽って娘に報復された母もある。
「そんなことないです」
セフィーは珍しくしっかりとした声音で否定した。
「捨てないで、くれました」
だが、世の母親の多くは、普通は子供は捨てないものだと言うだろう。
どうして彼がいつも不安げなのかが分かった。セフィーは母親にいつか捨てると脅されて育ったのだ。
自分の母親を思い出した。
吐き気がした。
「私はお前を絶対に捨てない」
セフィーはしばらく黙っていた。やがて、小さく「はい」とだけ答えた。
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