第6章:知ってしまった真実

6:知ってしまった真実 1

 どうしてここまでとんとん拍子で進んだのだろう。

 唇に紅をさされつつ、セフィーはぼんやりと考えた。

 もしも自分がただのアルヤ国民だったら、今頃喜んでいたかもしれない。誰もが祝福をと叫んで沸き立っている。今日はい日、のはずだ。

「いいですか、セフィー」

 指を拭ったルムアが、椅子に座ったまま動こうとしないセフィーの正面にしゃがみ込み、手首をつかんで言う。

「大丈夫ですよ。セフィーは決められた道をまっすぐ歩いていけばよいのです。他のことは何にもしなくていいですし、何にも言わなくていいですよ。シャムシャさまのところに辿り着いたら、あとはシャムシャさまのお隣に黙って座っていればいいです。つらくなったらすぐにシャムシャさまに言ってくださいね。念のため両脇にはライルさまやラシード将軍、フォルザーニーご兄弟もいらっしゃってくださいます。ナジュムさまのお兄さまのグレーファス・ハーディさまはセフィーもご存知ですよね?」

 そこで、ルムアが「セフィー、お返事!」と言った。セフィーは慌てて「はい!」と答えた。

「ほんとに大丈夫なんでしょうか……ルムアは心配ですよう……」

「だ、大丈夫だよ。何回も練習したし、ぼく、絶対余計なこと言わないから。だいじょうぶ。だいじょーぶ……」

 いったい何が大丈夫なのだろう。自分は、今、ルムアを安心させたくて適当なことを言っている。本当は何にも大丈夫ではない。

 今すぐ逃げ出したい。

 安請負するのではなかった。

「ルムアは?」

 立ち上がり、片づけ始めようとしていたルムアが、「はい?」と言って振り向いた。

「ルムアは、いないの……?」

 ルムアの表情が曇った。自分は訊いてはいけないことを訊いてしまったらしい。「ごめんなさい」と呟いてうつむく。

「いーえ、セフィーが謝ることではないです。ルムアの方こそごめんなさい。ルムアはあのような場には出ないです、自分が大事ですから」

 彼女の瞳は蒼いのだ。それは、この国ではとてつもなく重要な意味をもっている。彼女はそれをわきまえている。

 わきまえていないのは自分だ。

「ねぇ、セフィー」

 ルムアの声が、優しく言う。

「大丈夫じゃなかったら、今のうちに大丈夫じゃないって言ってほしいです」

 セフィーは肩を震わせた。

「無理して頑張らなくていいですよ。つらくなったらつらいと言うのです。嫌になったら嫌だと言うのですよ」

 しかしそこで戸の叩かれる音がした。ルムアは「どうぞ」と答えてしまった。時間切れだ。

「ご機嫌よう」

 入ってきたのは二人の女性だった。二人とも、金糸の刺繍のある衣装を着ている。頭にも同じ生地のマグナエを纏っており、首や腕には金の腕輪を幾重にも重ねていた。

 フォルザーニー家の女たちだ。

 セフィーは慌てて立ち上がってひざまずこうとした。だが、年上の方の女、当主の第一夫人が手を出し、「結構です」と制止した。

 ルムアが深々と頭を下げ、略式の挨拶をする。それに対しても年下の女、長男であるハーディの夫人が「構わないわ」と応じた。

「お久しぶりですね、セフィード。いえ、今日からはセフィーディア様、とお呼びすべきですか」

 そう言って優雅に微笑む姿は王妃になろうとしているセフィーよりずっと堂々としていた。

「す……みません。なんだか、こんな、急に話が進んで……」

「案ずることはないのよ。フォルザーニー一門に不測の事態などというものは存在しないわ」

「まして我が家の後押しで王家に入るとならば我々が介添えするのは当然」

「むしろこのような陰謀渦巻く場に女の身で出入りできることを喜びこそすれ」

「何を言います、我々はフォルザーニーの女、それも当然のこととしてお受けなさい」

 ルムアが小声で「これだからフォルザーニー家は」と呟いた。セフィーもとんでもない一族に関わってしまった気はしたが、口にはできなかった。

 「あちらの準備はできておりますよ」と、当主の第一夫人が言う。

「あとは主役の登場を待つのみです。我々は主役の親族の女としてその手を引くために参りました」

 目を細めて、セフィーを眺める。

「綺麗ですよ、セフィーディア」

 袖と裾の長い衣装は、刺繍に使われた糸の一本一本まで厳選され、一針一針丁寧に刺された特注品だ。刺繍糸の色は、紅と蒼――着る花嫁の瞳の色に王家の神聖な色である。薄く透ける頭の布には小さな花をあしらった模様が散らされていた。首にも腕にも、蒼い石のついた銀の飾りが重ねて通されている。

 花嫁衣裳だ。

 扉の向こう側に用意されているのは、自分とシャムシアス四世国王陛下との結婚式なのだ。大勢の人が花嫁である自分を待ち望んでいるのだ。

 セフィーは真顔になった。

 確かに、いつか、いつのことだかも忘れてしまった遠い昔に、結婚してみたい、と思ったことがある。だが、その妄想の中では、自分が花嫁を迎えている側だったと思うのだ。

 自分はとんでもないことをしている。

 首を横に振った。

 考えてはならない。

 彼女が望んだのだ。

 『蒼き太陽』が望んだ――それが世界のすべてだ。

「さあ」

 怖くなってルムアの方を振り向いた。だが、彼女は心配そうな目で自分を見ているだけだった。

 怖い。

 でも、逃げられない。

 震える足で、一歩を踏み出した。

 ルムアが扉を開けると、その向こう側に暗い廊下が続いていた。


 ふだんはアルヤじゅうからやってくる太陽の信者がひざまずいて祈っている蒼宮殿の講堂だが、今日に限って一般人はすべて締め出されていた。

 中央に蒼い色の細長い絨毯が一枚だけ敷かれていた。

 そしてその両脇に男たちが並んで立っていた。

 男たちは皆伝統的な正装、礼装を纏って、それぞれに出自と職業的地位を表すものを身につけている。貴族院の議員であることを示す、アルヤ王国の国花をあしらった金の徽章をつけた男たちが――最高裁判所の裁判官であることを示す、自分たちは誠実であるといった誓約文の刺繍の入っているたすきをかけた男たちが――選ばれた軍神たち、アルヤ王国軍の将軍たちが――そして、議会大臣と裁判大臣が、待っている。一番奥には、国王付きの侍従官として、ライルとナジュムの姿もあった。そして、セターレスの姿も、あった。

 目眩がした。

 みんな、自分を見ている。

 睨むように、えぐるように、試すように、探るように、ある者は驚嘆を、ある者は羨望を、ある者は恐怖を、ある者は畏怖さえ抱きながら、見ている。

 怖い。

 よく見ると、代表者たちの後ろにも人が並んでいた。軍の高官や、貴族の子息たち、各国からの来賓だ。彼らも自分を見ていた。

 怖い。

 怖い怖い怖い怖い。

 広場の中央に立たされて晒し者にされた日のことを思い出した。

 みんなに見られている。

「セフィーディア」

 女の甘い声が耳元で囁く。

「ご覧なさい。皆あなたに美しさに見惚れているわ」

 そうだ。

 ここにいるのは――みんなが見ているのは、セフィードという名の化け物では、ない。セフィーディアと名付けられた美しい娘だ。

 天井近くにある蒼い玻璃の窓から、床に光が差し入っていた。蒼い光は美しく、王家の血の神聖を思わせた。光は、蒼いのだ――本気でそう思えた。

 顔を上げた。

 正面の祭壇の中央に、この国だけに昇る蒼い色の太陽が立っていた。

 太陽は、心配そうな顔でこちらに手を差し伸べていた。

 その口が、動いている。おいで、と形作っている。

 ここは最高の舞台だ。

 美しい平民の娘が、神の一族に加えられる儀式に主役として現れた、その、一場面だ。

 演じることは得意だったはずだ。

 ここにいるのは、セフィーディアという名前の娘だ。

 一歩を、踏み出した。

 視線の意味がすべて賞賛に変わった。

 一歩ごとに神に近づく。太陽の、一部になる。


 のちに、ブルジオン王国大使アンリ・ジャック・ド・ポワティエが、自らの著書で語っている。

 ――少年王シャムシアスが自ら選んだという娘は、名をセフィーディアといったが、非常に美しい娘であった。彼女は白く輝いていた。長い銀の髪をまとめて透けるヴェールに包んでいた。目元は東方大陸南方の人間らしくはっきりとしていて愛らしい。ただその瞳が紅いのは魔物のようであった。彼女には天使の清らかさと悪魔の艶やかさが同居していた。なんと美しい姫だろう! 私は大華帝国でかつて傾国と呼ばれていた妃を思い出した。彼女もアルヤ王国を傾かせるかもしれない。


「やるじゃないかグラーイス」

 隣の議会大臣がそう呟いたので、裁判大臣が「何かね」と眉間に皺を寄せた。議会大臣が「いえいえ」と答える。

「息子から聞いてはいましたが、それにしても美しい姫君だな、と」

「そう言えば貴殿のご子息の紹介で上がったんだったな」

 「紹介ねぇ」と議会大臣が笑う。「何がおかしい」と裁判大臣の表情が険しくなる。

「彼女の美しさは目に毒だ」

「貴殿が仰せだといささか気になるが……、まあ、確かにな。それにしても宰相閣下はいったい何をお考えか、このようにあっさりと式典を用意なさるとは」

「おっと、舞台は最高潮ですよ」

 議会大臣の夫人が握っていた白い手が、祭壇の前で放された。壇上に上がれるのは神の一族に加わる王妃だけだからだ。

 白い革の靴がしっかりと壇の上の蒼い絨毯を踏み、一段一段上がっていく。紅い瞳が祭壇の前に立つ『蒼き太陽』の蒼い瞳を捉える。

 太陽の差し伸べた手を、白い手が、取った。

 拍手と歓声が沸き起こった。


 宮殿の二階に上がった。

 二階といっても、一階の天井が非常に高いので、床の位置は一般家屋の三階以上に相当する。

 何段もの石段を上がって目の前に現れた鉄の扉を開けた。

 そこには青空が広がっていた。その青さ、蒼さには、涙さえ覚えた。空は蒼い。アルヤ王国の太陽が蒼いからだ。

「セフィー」

 シャムシャが笑って言う。

「見てみろ。みんなお前を待っていた」

 見下ろすと、宮殿の建物の周りや門の傍、門の外の広場にまで、人が群がっていた。

 無数の顔が、こちらを向いている。無数の目が、こちらを見ている。

 頭上の太陽も、自分を見ている。

 見られている。

 我に返った。

 自分はこんなところで何をしているのだろう。

「手を振ってやってくれないか」

 隣を見ると、シャムシャが笑っていた。

「実は、私もこうやって民の前に出るのは初めてで、緊張している」

 だめだ、と、セフィーは思った。思ってしまった。

 太陽が見ている。

「笑って、手を振ってやって?」

 逆らえなかった。

 セフィーは片手を出し、振った。その瞬間、民から声が上がった。

「なんて美しい王妃様だろう」

「真っ白だ。アルヤの新しい光だ」

「白くて、優しそうで、まるで月のようだ」

「この国の夜闇を照らす月だ」

 見ている。

「『白きマー・イェ・セフィード』セフィーディア」

「マー・イェ・セフィード、セフィーディア」

「マーイェセフィド!」

 みんなが、名前を、呼んでいる。

「マーイェセフィド!」

 呪われた、白という名前を、叫んでいる。

 太陽が、見ている。

 暑い。

 暑い。熱い。

「……セフィー?」

 熱い。

 太陽が、熱すぎる。

 世界が歪んで見えた。

 地面が揺れた。

「セフィー!?」

 世界が真っ暗になった。ただ、マーイェセフィドと叫ぶ歓声が王妃の名を叫ぶ悲鳴に変わったのだけが聞こえた。

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