5:笑ってください 5
ほの白い月明かりに照らされ、シャムシャの白い肢体が夜闇に浮き上がる。
セフィーは寝台から降りると、シャムシャが着ていた肌着を床から拾い上げた。丁寧にほこりを払い、いつも服を着せている時のように彼女の肩にかけた。
「シャムシャ、風邪、ひいちゃう、よ? 大丈夫?」
「大丈夫なわけがあるか。じんじんする」
「ご……ごめんなさい……」
「謝るなボケ」
それも、承知の上だ。すべてを覚悟の上で望んで臨んだのだ。
アルヤの娘は処女でなければ嫁に行けない。
もう、後戻りはできない。
セフィーが慣れた手つきで、しかし優しく、肌着に袖を通させてくれる。それが妙に心地良い。
セフィーの手が帯を腰に回す途中で止まった。シャムシャはそれに気づいて「どうした?」と訊ねた。
「ね、ここ――」
セフィーの指先が示した先――シャムシャの白い腹に、傷跡が残っていた。左胸の下から右脇腹まで斜めに一直線の太い傷が走っており、医者が縫合した痕が足のように細かく出ている。
「ああ……」
シャムシャは苦笑しながら自分の腹を撫でた。
「気持ち悪いか?」
「ううん……、痛そう……」
「もう三年も前の傷だ。痛むということはない」
セフィーはしばらく何事かを考えていたようだ。だがやがて黙って着物を整え直して、帯をしっかりと締めてしまった。
「聞いてくれないのか?」
シャムシャが苦笑して言う。セフィーも、苦笑した。
「聞いた、方が、いいのなら」
「聞いてくれ」
「どうしたの……?」
「兄上に――ハヴァース兄様に斬られたんだ」
セフィーの目が丸くなった。驚いたらしい。セフィーはハヴァースに直接会って良い印象を植え付けられているのだ、そういう蛮行をはたらくところなど想像できないだろう。
シャムシャも、今でもハヴァースがそんな悪であるとは思わない。むしろシャムシャの方が罪悪感ばかりだ。
父は、ひとつずつ、ハヴァースからむしり取っていった。最初は些細なことからだった。いつもの季節行事への出席が取りやめになったことから始まった。ラクータ帝国への外遊がなくなった。
目を閉じれば、あの日々のことが昨日のことのように甦る。
三年前の事件の日、自分は父に言われるがままハヴァースが座っていた席に座ってしまった。
「父上が私を次の王として正式に民にお披露目をした時の話だ。兄様は、ご自分のお部屋で待機するよう、父上にきつく言われていた。それを抜け出してきて――」
女官たちの悲鳴が聞こえた。隣では、父が顔を真っ赤に染めて何かを叫んでいた。壇上へ駆け上がったラシードの手は、ハヴァースの肩に触れるか否かのところで、届かなかった。
シャムシャは、動けなかった。
――お前さえ死ねばいい。
刃がひらめいても、誰に何と言われても、動けなかった。
恐ろしかった。
――お前さえ死ねば僕は王になれる。
「セターレス兄様は、その時――大華帝国、って分かるか?」
セフィーが隣に横たえつつ、「聞いたことは」と答えた。
「政治の勉強のために留学していてな。父上の言いつけだったが、大華は強力な中央集権国家だ、セータ兄様としてもハー兄様を中心に据えた強いアルヤ王国のためになると思ったんだろう。まさか自分の留学中にそのハー兄様が投獄されるとは夢にも思わなかっただろうな」
だが、彼が帰国した時、すべては終わっていた。
「……私、は」
セフィーの胸に縋りついた。彼の胸で泣きたかった。痩せた彼の胸はいささか頼りなかったがそれでもよかった。
「王になんかなりたくなかった」
ただ、髪が、蒼かった。
それがこの国ではすべてだ。
「なりたくなかったのに……、父様も、母様も、……兄様も、私の髪が蒼いからと言って勝手に」
セフィーの腕が、背中にまわされた。強く抱き寄せられた。
その温もりが、心地良い。
自分がほろほろと溶けていく。優しくなれる。
「兄様に斬られた時天罰が下ったんだと思った」
「どうして……」
「私は母様を殺したんだ」
その時の弾力を、シャムシャははっきりと憶えている。
「この手で斬ったんだ。嫌がる母様を廊下に引きずってきて剣で胸を刺した」
見開かれた母の両の目、響き渡る断末魔の声、溢れ出た血の香り――そんなものでさえ、憶えている。
「死んでしまえばいいと思った。あの女は髪が蒼かったからというだけの理由で私を父様に売ったんだ。娘を売るなんて死んで当然の母親だと思った」
あまりにも呆気なかった。
蒼い髪の王子のいたずらは宮殿の中でなかったことにされた。何事もなかったかのようにエスファーナの空気は流れアルヤ王国の時は過ぎた。
それでもシャムシャはすべてを憶えている。
「簡単だった。人の斬り方はセータ兄様に何度も練習させられていたからな。ただ思ったより人の肉は硬いなと思っただけだ。あれ以来何人殺しても一緒だ」
「シャムシャ」
「だからハー兄様に斬られた時このまま死ねばいいと思った。仕方がない。これですべてが終わる。私が生きている限り――私に蒼い髪が生えている限り私は周りの人間を傷つけるんだ、それが終わるならそれでもいいと思った」
でも、今、触れている温かさを感じられて、生きていて、よかった、と、思ってしまった。
「私はきっと呪われている。その証がこの髪だ。良い死に方はしないだろう」
「シャムシャ」
優しい声が聞こえる。
「シャムシャは幸せになろうね」
優しい声が、聞こえている。
「ぼくは、ずっと、傍にいるから。ね」
全身に染み渡っていく。
「シャムシャは、幸せになろうね」
ずっと、このままでいたかった。
「セフィー」
「なあに?」
「私、そろそろ、ちゃんとした王様を目指そうと思う」
この幸福を、守るために。
足音と戸を開ける音が聞こえてきたので、サマナは急いで布団に戻った。この数ヶ月ほど行方知れずになっている息子が戻ってきたと思ったのだ。
なぜ布団に入ったのかは、分からない。無意識のことだ。以前からそうしていたので理由など忘れてしまった。
薄い掛け布団をかぶりつつ、サマナは咳き込んでみせながら、「お帰りセフィー」と言った。
「ずいぶんと戻ってこなかったけど、どこへ行っていたの? 母さんはお前が私の知らないどこぞへ売り飛ばされたのではないかと心配していたよ。で、どれくらいの稼ぎに――」
だが、
「サマナ・アーベディーだな?」
頭上に降り注いだ声は知らない男のものだった。
驚いて上半身を起こした。
そこに白い軍服を着た男が三人立っていた。
一番手前、自分の傍にいる男は、窓から入る月明かりで銀に輝く刃をサマナに見せつけていた。
「ひッ」
「答えろ。サマナ・アーベディーだな?」
「は、はい」
震えが止まらない。動けない。
「し、白軍の兵隊さんが、いったい何のご用で――」
「十七年前にお前が真っ白な男児を出産したと記録にあったが、それに相違はないか」
サマナは大きく目を見開いた。すぐさま首を横に振った。
「違いますッ」
だが、男は鼻で笑う。
「心当たりはあるようだな」
「そんな、私、私」
殺されると思った。とうとうこのアルヤ国内で化け物を飼っていたことがお上に知れてしまったのだ。神の国に異形のものを産み落とした罪は重いに違いない。
「私は悪くありませんッ!」
必死だった。他には何も考えられなかった。ただ死にたくない。それがすべてだ。
「私は悪くないわ、そう、あの人が悪いのよ、身重の私を置いて他の娘にうつつを抜かしていたあの人が、だから私はあんな化け物を――」
「そうか」
次の時、刃がひらめいた。
「母でありながら病気の息子に売春をさせ自らはのうのうと暮らしていた重罪はその命で贖え」
絶叫が響いた。狭い室内に赤い液体が飛び散った。
「セターレス閣下に報告せねば――撤退するぞ」
「はッ」
そしてエスファーナの夜に静寂が戻る。
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