第8章:夢の続きを
8:夢の続きを 1
ライルが寝台の上に座ったまま看護婦に服を着せられていた時のことだ。
戸を叩く音が聞こえてきた。ライルは特に深く考えずに「どうぞ」と答えた。
戸が開けられた次の時、ライルは目を、丸くした。
「やぁやぁ、ご機嫌よう!」
入ってきたのが、いつもと何ら変わらぬ様子のナジュムだったからだ。
言葉が出なかった。ナジュムが、怪我をしているようでもなく、疲れているようでもなく、能天気に微笑んで部屋に入ってきている。ただそれだけのことだったけれど――
ナジュムの方は顔をしかめた。
「ライル……君ねぇ、怪我人だと思っていたのに、わざわざそんな体で看護婦さん相手に童貞を卒業しなくても……」
ライルは一瞬何のことかと首を傾げたが、看護婦の方が赤い顔で「違います傷の消毒をしておりました」と怒鳴った。
「――って、貴様、傷口は腹にあるのに服を脱がなくてどうする」
「はいはい、僕は男の胸には興味ない、早く帯を締めたまえ」
「君にそんな甲斐性はなかったねすまない」と、いたずらそうな笑顔で言う。
「もう済んだところだね? 少し席を外してもらってもいいかい?」
少々不満げながらも、看護婦は「はい」と頷いて、戸の方へ向かって歩き出した。
「くれぐれも動き回ったり――」
「させないよ大丈夫。お喋りだけさ、安心したまえ」
戸が閉まった。ナジュムが見送りながら「あの強さはまさしくアルヤ人女性だね」と言った。
「知り合いか?」
「メフラザーディー家のお嬢さんだよ。確かまだ独身だ」
「それは聞いてない」
「まぁいいさ。調子はどうだい?」
ライルは一度黙った。ややしてから、ナジュムに向かって「もう少しこっちに来い」と告げた。ナジュムが「何だい」と訊ねつつ寝台の傍まで来る。
腕を伸ばした。
ナジュムの腰を抱き寄せ、その腹の上の方に顔を埋めた。
温かかった。血の臭いもない。
ナジュムが珍しく戸惑った様子で「ライル?」と訊ねてくる。
ライルは目を閉じ、小さな声で「お前が無事でよかった」と呟いた。
「もう、勝手なことはするな。勝手に俺の前からいなくなるな」
「……すまなかった」
「ただいま」とナジュムが言った。ライルはつい、「バカ」と応じてしまった。
「独房にお泊まりしてしまったよ……! 暗くて臭くて閉鎖的でもう嫌だ。僕は閉所恐怖症になったかもしれない」
「お前、本当に馬鹿だな」
溜息をついて離した。ナジュムはすぐそこ、寝台の縁に腰掛けた。
「俺の方はそう悪くはない。医者に内臓まで診られたが、死ぬようなものではないそうだ。ただ、動くと痛むし、しばらくは安静にしているつもりでいる」
「そ」と言い、ナジュムが肩の力を抜いた。安心されたようだ。ライルは少し嬉しく思った。だがお互いそれ以上は言わない。
いつもどおりだ。
「まぁ、よいことだね。今この混乱状態でこれ以上人が減るのはまずい。陛下は君を信頼しているしね」
「まだごたごたしているのか」とライルが訊ねた。それから、「二人が死んで一応収まったと思ったのだが」と付け足した。ナジュムが「やっぱりまだ知らなかったか」と眉間に皺を寄せる。
「は? 何をだ」
「先王陛下がご逝去なされた」
ライルは目を丸くした。ナジュムの目はいつになく真剣そのもので、からかいの要素は一切なかった。
「今朝、北部の離宮でご遺体で発見された。先王陛下だけではない、離宮にいた使用人もすべてだ」
突然の情報についていけず、「どういうことだ」と怒鳴るように問う。ナジュムが「大きな声を出すのは控えたまえ、傷にふれる」とたしなめる。
「毒殺だ」
「毒殺!? なぜ」
「落ち着いて考えてみたまえ、先王陛下が消えて喜ぶのは誰だった?」
先王は位を退き北部の離宮に引退してなお政治に口を出し、『蒼き太陽』を使って保守的な古い体制を維持しようとしていた。それをうっとうしく思っていた人間を、ライルは、知っている。
「……ハヴァースとセターレスが――」
ライルの言葉を遮り、ナジュムが「そういうことだろう」と頷いた。
「実行犯は今朝方遺書なしに自害した若い白軍兵士のようだ。彼はセターレス派の人間だったことが同期の兵の報告で分かっている」
「あと一歩だったね」とナジュムが言った。
「我らが国王陛下は愛する妃があの調子で動けない。王が動かなかったら我々も行動を取りにくい。後は邪魔な先王陛下を始末してしまえば、お二人の独壇場になる――はずだった」
だが、シャムシャは動いてしまった。
「皮肉なことに、最終的には、うちの女王様が好き勝手できる環境を整えてしまったというわけだ」
そこでライルは気づいてしまった。あまりにも悲痛な事実に息苦しささえ覚えて、強く目を閉じた。
「なぁ、ナジュム」
ナジュムが「何だい?」と軽く訊ねてくる。
「あの二人は、結局、シャムシャを殺さなかった、な」
それが何を意味しているのか、ライルはこれ以上深く考えたくなかった。
「……陛下は、父君が亡くなられても、何にもおっしゃられなかったけれども……、ただ」
話題を変えられたことに気づいて、ライルはつい苦笑して顔を上げてしまった。
だが、
「北の離宮には、ヌーラ殿もいたはずだ」
ルムアの母親だ。
ナジュムは、先王だけではなく離宮にいた使用人もすべて、と言った。ということは、つまり、
「……ルムアは、どうしている」
「どうも。いつもどおりだったよ」
言葉を失ったライルの返事を待たずに、ナジュムは「さて」と言って立ち上がった。
「とりあえず、今のところ報告しておきたいところは以上だ。また夕方に顔を見せるよ」
「どこか出かけるのか?」
「陛下に呼ばれている。南の塔に、だから、たぶん政治関係の話で、うちの兄上とかもいるんだと思う」
「そうか……行ってこい」
「はーい、ではまたねー」
ナジュムが部屋を出るのと同時に、待っていたのか先ほどの看護婦が戻ってきて、「大丈夫ですか?」と訊ねてきた。ライルは苦笑して、「体はな」と答えた。
シャムシャには分かっていた。政治の上の方を握っている人間は自分がお姫様だったことを知っている。自分一人では確実になめられる。なめられないようにするためには強力な人柱が要る。
ラシードに扉を開けさせた。
豪奢なアルヤ絨毯や窓掛けを使った来賓との謁見の間に、フォルザーニー家の者としての正装である白い衣装に身を包んだグレーファス・ハーディ・フォルザーニーが待っていた。
ハーディは、シャムシャの姿を見ると、ひざまずいた。
「忙しいところ悪かったな」
「何をおっしゃいます、陛下の命より重要な用事がこの王国にございましょうか」
「ハーディ殿に二、三確認したいことがある。これらは絶対に使者や書面を介したくないことだ」
「左様ですか」と笑む。
「最初に。先日、フォルザーニー家は全面的に私に協力すると言っていたな。その言葉は確かか?」
彼はあっさりと「はい、もちろんです」と答えた。
「何なりとおっしゃいませ、全力を尽くしましょう」
扉が突然開けられた。振り向くと、シャムシャの予期していたとおりの客がいた。裁判大臣のエスファーニー卿と、彼のために扉を開けているナジュムだ。
エスファーニー卿はいつもの不機嫌そうな顔で「陛下、いかようにていらっしゃるか」と言った。シャムシャはあくまで何事もなかったかのような顔でハーディに言ったのと同様に「忙しいところ悪かったな」と応じたが、内心では彼の登場に少しほっとしていた。
「おや? 大臣もお呼びでしたか」
ハーディの笑顔には本心がまったく見えない。
自分をなめている貴族代表はフォルザーニー家だ。
「お呼びしたのは他でもない。今後の政策について思うところがあってな、おおやけの場で発言してしまう前にお二方のご意見を伺いたかった」
エスファーニー卿が「なるほど」と頷き、「お聞き致す」と答えながらアルヤ絨毯に腰を下ろした。
ラシードがどこからか人数分の座布団を持ってきた。卿はそれを受け取り、自分の尻の下に敷いた。ハーディもシャムシャもそうして座り込んだが、シャムシャはナジュムにだけは「お前は立っていろ」と命じた。ナジュムは「なぜですか」と顔をしかめつつ座るのを諦めてシャムシャの斜め後ろに立った。
「して、陛下、いかがなさるおつもりか?」
シャムシャは頷いた。
できないことは、しないべきだ。今の自分は、しょせん、小娘なのだ。
「私は、王の権限を縮小しようと思う」
エスファーニー卿が目を丸くした。ハーディはシャムシャの後ろ――ナジュムに目配せした。
「と、おっしゃると――」
「アルヤ王国では王の力が強過ぎて私には扱いきれない。ここのところセターレスがまとめていた書類に目を通していたが、あれらを私一人ですべて処理するのは不可能だ。もちろんできる限りのことはする。だが、私はすべてに中途半端に手をつけてすべてを失敗させるようなことはしたくない」
嘘偽りのない本心であった。
「そこで、宰相をもっと大きく機関として設けようと思う。裁判所と議会も一からひとを選び直して、改めて、裁判大臣を最高裁判所裁判長に、議会大臣を貴族院議長にする。アルヤ王は国家の象徴であり行政権だけの頂点でありさえすればいい」
「不敬罪も廃止したい」とシャムシャは告げた。
「もちろん、この改革が終わってからの話になるが。急な改革は反発を生むからな。体制が整い次第撤廃して国民の不満を吐き出させてやるんだ」
低い声で「いつ考えなさった」とエスファーニー卿に問われた。シャムシャは臆することなく「この前死刑の執行を決めた瞬間から今日の今に至るまでの間に」と答えた。
エスファーニー卿もハーディも黙った。シャムシャはどちらかが何か言うのを根気強く待った。すぐには頷くまいとは思っていた。これは王のお傍付きとして甘い汁を吸ってきた貴族の整理にもつながる。
先に頷いたのは、エスファーニー卿の方だった。
「よろしかろう。理想主義的だが、手が届かぬほどまで遠い理想でもない。自分は尽力致す」
エスファーニー家はもともと武官系の家だ。エスファーニー卿の兄弟は軍の高官として働いた実績があり、今も彼の長男が白軍の幹部を務めている。エスファーニー家は裁判大臣の地位を使わなくても貴族であれる。
フォルザーニー家は文官系だ。彼らは政治的な地位を独占することで富み栄えてきたのだ。
ハーディが「んー」と唸って腕を組んだのを見計らい、シャムシャは続きを切り出した。
「ナジュム」
シャムシャが立ち上がって振り向くと、ナジュムがきょとんとした顔で「はい?」と答えた。
「お前の母親はどこの出だ」
「何をいきなり」
「いいから言え」
「デヘカーン家です。今のデヘカーン家当主は伯父に当たります」
「素晴らしい血統書がついているようだ。今の古いアルヤ王国ではお前に逆らえる者はあるまい」
顔をしかめて、「畏れながら陛下」と不服を口にする。
「僕の価値はそんなものではありません。家など関係なく僕は僕自身だけでもいろんなことができます」
ラシードとエスファーニー卿は揃って「こらっ」と怒鳴ったが、
「言ったな? それに嘘偽りはないな? 信用するぞ?」
「もちろんです」
「お前を信用する。だから私と一緒にこの国の人柱になれ」
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