3:劣等感に劣等感を重ねる 4
宮殿の中を小川がさらさらと流れている。セフィーはふとそれに目を留めた。涼しそうだ。
エスファーナは砂漠の中にある都市だ。街じゅうに張り巡らされた
ちょっとだけ、触ったらいけないだろうか。ちょっとなら、いいだろうか。
セフィーはその小さな流れの傍にしゃがみ込み、手を伸ばした。
指先が水に触れた。冷たくて気持ちが良かった。
周りに人の姿はない。
もうちょっとだけなら、いいだろう。ほんのちょっとだけだ。
セフィーは靴を脱いだ。
立ち上がって足先を浸した。冷たさに恍惚とする。
女官服の長い裾を摘まみ上げ、中の筒袴の裾もめくり上げた。もう片方の足も入れた。
少しだけと誓ったのを忘れて、セフィーはしばらく溝の中を歩いたり水を蹴り上げたりして遊んだ。
太陽が高く昇りその蒼い光で空を青く染めている。辺りは静かだ。
こんなに平和な午後など、生まれて初めてかもしれない。何にも怯えなくていい。これほどまでに幸せでいてもいいのだろうかと思ってしまう。
自然と気持ちが弾む。声が零れるように出ていく。
「此の世の春や 来たりけり
花は咲きたり げにうらら
空は晴れたり 気は澄みて
蒼き
『蒼き太陽』の世は豊かだ。まるですべての不安が消え去ってしまったかのようだ。
「神の声 聞かるるがごと
其の恵み 覚えられ申す
蒼き陽の 其の光浴び
我が
その、一つの節が終わったところだった。
後ろから、突然「こらっ!」と怒鳴られた。
肩を大きく震わせてからおそるおそる振り向くと、すぐそこに眉間に皺を寄せたルムアが立っていた。
彼女はまず柱の下に置き去りにされていたセフィーの靴を手に取った。それからセフィーの右腕をつかんだ。庭に植えられた椰子の木を指し、「こっちへ来なさい」と言う。セフィーは慌てて頷きそれに従った。
彼女がこんなに怒るのなど珍しい。自分はそんなに悪いことをしてしまったのだろうか。しかしいったい何がだろう。仕事をせずに水遊びをしていたのである、全部が悪いように思えてきた。
裸足のまま芝生の上を歩いて、椰子の木の下、木の葉の影に入らされた。
ルムアは「そこに座りなさい」と言ってからセフィーの腕を離した。すぐにふたたび小川の方へ向かって駆け出す。何が何だか分からずきょとんとしたまま待つ。
ルムアが戻ってきて、セフィーの頬に何かを押しつけた。柔らかくて冷たい。どうやら手拭いを水で濡らして絞ったものらしい。
「ルムア?」
ルムアが眉間の皺をそのままに答える。
「もうっ、お医者さまが長い間日光に当たってはいけないとおっしゃられましたでしょう!?」
一瞬、何のことか分からなかった。ルムアに「顔を真っ赤にしてっ、きちんと冷やしなさい!」と言われてから、ようやく認識した。
一昨日のことである。セフィーはライルに引きずられてナジュムの呼んだ医者に引き合わせられた。
その医者は、年の頃はもう六十過ぎの老人であったが、背筋を正して胸を張りはきはきと話す様子は若々しく、非常に大きく見えた。フォルザーニー家の馴染みの医者であり、ナジュムも生まれた時から世話になっているらしい。
セフィーは怖くてたまらなかった。会う前から泣きそうだった。
けれど彼はセフィーに会ってまず生まれてからずっとセフィーをがんじがらめにしていた呪いを解いてくれた。
――はあ、これはまた驚いた。ここまですっかり色素が抜けてしまっている症例は珍しい。
――症例?
セフィーは目を丸くした。
――ぼくは病気なんですか?
――ああ、そうだとも。西方の言葉でアルビノという。あえてアルヤ語に訳すとしたら白皮症かね。
病気だったのだ。
――なに、死ぬ病気でも、ひとにうつる病気でもない。色のない肌で生まれるだけの病だ。
瞬間、セフィーはその場に崩れ落ちた。泣き崩れた。
自分は人間だったのだ。
そんなセフィーをルムアが横から抱き締めてくれた。セフィーは安堵してルムアに縋りついた。
だが、医者は続けた。
――しかし、気をつけなければならないことが一つだけある。君にとって太陽は強すぎる存在だ。太陽の光を受けるためには皮膚に色がついていないといけない。皮膚に色がついていないと太陽の光に耐えられないのだ。もし君が裸で長時間日光に当たったら、全身大火傷をして死んでしまうだろう。くれぐれも太陽の恵みを受け過ぎないことだ――
露出を極限まで抑えるために厚く長い服を着、人目を避けて日が暮れてから活動する生活を送っていたことが、こんな風に役立っていたとは皮肉である。
それでも自分が人間であるというただ一点の事実が他のすべてをどうでもいいことに変えた。自分は病気なので白くても仕方がないのだ。これはけして呪われているわけではない。
「思い出しましたか?」
「うん」
「もぉーっ、うっかりしてるんですからぁーっ!」
「でも」とルムアがようやく表情を緩めた。
「セフィーはお歌がうまいのですねっ」
「えっ」
セフィーは顔が熱くなるのを感じた。これは太陽のせいではなく、
「あっ、あんなのっ、聞いてたのっ!?」
恥ずかしかった。あの歌は、若い娘が想い人に会えて嬉しくなってしまった、という歌詞の、恋の歌なのだ。自分が恋だの愛だのと言っていたのだと思うと――そしてそれを人に聞かれていたのだと思うと、恥ずかしくて消えてしまいたくなる。
「お上手でしたよー?」
しかしルムアはそんなことなどまったく分かっていない様子だ。
「もう一曲歌ってくださいませませっ。この宮殿は静かで殺風景ですから、セフィーみたいな可愛い子が歌でも歌っている方がよいのですっ」
セフィーには美しいこの宮殿を殺風景だとは思えないが、確かにどこか寂しく見える。
「ねっ、セフィー、いいでしょう? 街の流行り歌が聞きたいです」
「ルムアはここから出られませんから」と、彼女は明るい声で言った。表情も明るいものだ。けれどセフィーにとってはそれがとても悲しい。
「そこまで……言うのなら」
セフィーは深く息を吸った。
頭の中では双子が歌っていた。
彼女らに教わった歌を歌おう。人間として生きられなかった自分たちが歌った、人間の乙女が歌うごく普通の恋の歌を歌おう。
ライルが部屋に入った時、シャムシャは窓際で窓の下を見下ろしてにやにやしていた。不気味に思って「何を見ている?」と訊ねると、シャムシャは「お前も見てみろ」と答えた。
窓に近寄ったら、歌声が聞こえてきた。聞き慣れない声だ。
見下ろして、椰子の木の下で歌声を紡いでいる人物を確認した時、思わず「え」と呟いてしまった。
「セフィーなのか?」
「さっきからずっとあそこでルムアといちゃついているんだ」
どうやら彼らの主君はその様子を観察して楽しんでいたらしかった。にやける口元を押さえつつ、「可愛い」と呟いている。
「子猫がじゃれ合っているかのようだ。お前とナジュムがいちゃついていてもまったく癒されないが、ルムアとセフィーは癒される」
「ナジュムといちゃついているつもりはない。あいつが絡んでくるだけだ」
「ナジュムに言えば構ってやっているのだと返ってくるぞ」
セフィーがこのように大きな声を出すとは、ライルは思ってもみなかった。シャムシャも同じように思っているらしく「少し意外だな」と言う。
「しかも結構しっかりと腹から声を出している気がする。あいつは歌唱訓練でも受けていたのか?」
「いや、それはないと思うが」
「歌い方が男みたいだ」
ライルが心臓が跳ね上がったのを感じた。
「いわゆる、腹式呼吸、だな。女は自然にはそうならない」
「お前こそ、どうしてそういうことに気がつくんだ?」
「そう教わった。さらわれそうになったら大きな声を上げろとか、剣を奮う時には気合を入れろとか、言うことを聞かない平民は一喝しろとか」
「お前……姫君だったんじゃなかったのか……」
「姫君だこの野郎」
だが、ライルは知っている。シャムシャをそうしつけたのはセターレスだ。
ハヴァースとセターレスは、基本的には、シャムシャに自分たちが受けたそのままの教育を施そうとしていた。シャムシャは兄たちの手によってアルヤ王国の王族として最高の教育を受けて育った。
だが今は二人とも敵だ。シャムシャを害する存在はみんなライルの敵になった。
ふと、シャムシャの方に目をやった。少女のわりには背もある。剣を持たせれば自分にでも応じられる。花や人形で遊ぶより木に登ったり馬に乗ったりすることを好む子だ。
しかし自分やナジュムよりはずっと華奢だ。
守らなければならない。
歌声が止んだ。
ルムアがセフィーに手を振っている。こちら側、建物の中に引っ込もうとしているようだ。そう言えば、彼女は先ほど他の女官たちに文句をつけると言って出ていったところだ。後でこの部屋に戻るとも言っていた。シャムシャが「急がなくてもいいのに」と口を尖らせる。
「と言うか、セフィーも連れてこいよな」
「セフィーはお前を前にすると緊張する、休憩も入れてやった方がいいと思う」
「なぜだかさっぱり分からん」
「セフィーは平民出身だぞ、アルヤ人にとってはお前の蒼さは想像以上に強烈らしいからな。チュルカ人の俺も初めて見た時はすごく驚いたものだ」
「そうだったのか、初耳だ。でもなあ、こればっかりは生まれつきなのでどうしようも――」
シャムシャの言葉が途中で途切れた。
「まずい」
「どうした?」
「下を見ろ」
三度窓の下を見下ろした。
悪寒が走った。
建物の中からセフィーの方に一人の男が近づいてきていた。
背の高い、若い男だ。黒い筒袴の上に蒼い衣を纏い、さらにその上から聖典の一節を縫い取った細い帯をたすき掛けにしている。それは神の代理人にしか許されない衣装だ。
セフィーの動きが強張った。だが、ここからでは話している内容も表情の動きも分からない。
やがて、男に続き、セフィーが建物の方へ歩き出した。
男は、笑っていた。
「セターレス……!」
シャムシャもライルも部屋から飛び出した。
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