3:劣等感に劣等感を重ねる 3
朝食の前に王を起こして食事の間に連れてくるという大役を担わされた。
勇気を振り絞ったセフィーが王の寝室にやってきた時、王はすでに床から出ていた。窓から外を見下ろしつつ伸びをしていた。寝起きだからかどこかぼんやりとした表情だ。
体の線が分かるほど薄い寝間着は前がはだけてしまっている。長く伸ばされた髪が肩や窓枠にぱらぱらとかかっている。しどけないが艶やかなその姿はいかにもアルヤ美人といった風情だ。
彼女は妙齢の女性なのだ。
セフィーが、ほう、と息を吐いたところで、彼女が振り向いた。
「何だそれは」
低い声に鋭い目つきだった。やはり彼女は王であり『蒼き太陽』なのだ。セフィーはその身を震わせた。蒼い瞳が恐ろしい。
セフィーが恐れおののいて何も言えずにいると、王が「手だ、手」と言った。
「その右手、何をした?」
言われてから、セフィーは自分の右手を見た。そこに包帯が巻かれていた。つい先ほどライルに巻き直してもらったものだ。
いきなり右手首をつかまれた。心臓まで握られたような気がして、セフィーは全身を震え上がらせた。
「どうした。言え。何をした」
大きな蒼い瞳が輝いている。
彼女は太陽なのだ。強い力を秘めている。残虐に砂漠を焼く。
怖い。
目を逸らしたら「私には言えないのか」と言われてしまった。慌てて首を横に振った。
「じ、自分でやったんです」
「自分で?」
「お、お皿を……割って、しまって。片づけなきゃ、って……」
「馬鹿」
てっきり皿を割ったことを怒られると思っていたのだが、
「女なのだから体に傷を作るようなことはするな」
セフィーは目を丸くした。
自分はナジュムの言いつけで女官服を着用している。どうやら、王がこの頃男性不信気味なのでこれ以上男を近づけたくないため、らしい。彼女は、確かに、ライルやナジュム、ラシードにはきつく当たるが、ルムアや自分にはどこか甘い。自分はこのまま女だと思われていた方がいい。
そうと分かっていても、セフィーは複雑な思いだ。なぜ男であることが見つからないのだろう。そして、見つかった時は、いったい、どういう扱いを受けるのだろう。
彼女が一言始末しろと言えば自分はあっさり存在しなかったことになる。
「セフィー」
名を呼ばれ、慌てて顔を上げ直した。王は不機嫌そうな顔をしていた。
「お前は何をしに来たんだ?」
「え?」
「仕事。しなくていいのか?」
「ぼーっとしている」と言われてしまった。母にも『旅する見世物小屋』の連中にもよく言われていたが、王はそんなことなど知る由もないだろう。慌てて表情を変えたセフィーに対して、「疲れているのか?」と訊ねてきた。
「朝はつらいか? 無理はしなくていいぞ」
言葉は優しいが声はあまり優しくない。苛立ちが見え隠れしている。機嫌を損ねてしまったようだ。
急いで首を横に振って「働きます」と答えた。
「えと、あの、お召し替えは――」
「はっきり話せ。敬語を使えないのなら俗語だろうが方言だろうが何でもいいからはっきりと物を言われる方が好きだ」
難しいことを言われた。
「で、何なんだ」
泣きたくなってきたが我慢だ。そんなことをしようものなら余計に怒られる。
「お、お召し替えは、いい、から……上に、お着物を……上着を」
「ああそう。それで?」
「あ、あと、
「好きにしろ」
好きにしろ、とは、勝手にやれ、ということだろうか。セフィーの意思で、だろうか。
セフィーは震え上がった。だがよくよく考えればそれこそ自分の今の仕事だ。
そう扱われ慣れているのだろう。王はゆっくりセフィーに背を向けると、何も言わずにわずかに腕を持ち上げた。
これまでずっと腕に抱えていた、ルムアに持たされた聖なる蒼い衣を、広げて見てみた。何となく、自分が触ると白い粉がついて大事な蒼色が汚れてしまう気がしていた。実際には何ともなっていない。ほっとした。
小走りで駆け寄り、後ろからそっと肩にかけるようにして着せ掛ける。
長い髪が衣装と背の間に挟まれた。
髪に手を伸ばそうとして、はっとした。
この、神聖な蒼い髪に、汚れた自分の手が触れるのか。
蒼い髪はこの国においてはもっとも神聖なものだ。侵してはならない神の証だ。
セフィーは幼い頃母に語り聞かされたこの国の建国の物語を思い出した。蒼い髪の初代国王が東西の蛮族を追い出してこの地を平らげた。虐げられていたアルヤの民を解放しアルヤの民のための国をつくった。以来アルヤの民にとって蒼い髪は自由と誇りの象徴だ。何よりも尊いものだ。
自分が軽々しく触れていいものではない。
「セフィー」
名前を呼ばれて、セフィーははっとした。目の前の王は声に苛立ちをあらわにしていた。
「何をしているんだ早くしろ」
「ごっ、ごめんなさいっ!」
また、泣きそうになった。
「ごめんなさい、できません」
「何がだ」
「聖なる蒼い御髪に――」
触れるなんて――そう言う前に王は振り向き、蒼い瞳でセフィーを睨みつけた。
「はさみを持って来い」
「はさみ?」
「お前に私の髪を切らせてやる」
目眩がした。そんなことをしたら自分はお終いだ。死んでも安楽な死後はないだろう。
「でっ、できません」
「なぜだ」
「お前も言うのか」と言った王の蒼い瞳が凍りついている。
「お前も私の蒼い髪が好きか」
セフィーは一瞬悩んだ。王がいったいどんな答えを求めているのか一生懸命考えた。
セフィーには分からなかった。
そもそもなぜそのようなことを訊くのだろう。その蒼い髪に感嘆し畏敬の念を覚え崇拝するのはアルヤ人であれば当然のことだ。
自分は化け物だがアルヤ人だ。
「答えろ」
はいと言ったらおそらく目の前の王の怒りを買う。しかしいいえと言ったら自分はアルヤ人失格だ。
自分は人間とは違うのでひょっとしたらアルヤ人としては扱ってもらえないのかもしれない。だが、自分も、『蒼き太陽』がアルヤの栄光を示すものだと信じている。
現に、目の前にいる太陽は、自分たちがすべてをあずけるに足ると思えるほど、強く、美しい。
「も、もちろんです」
それに何より、
「だって、そんなに、豊かで、艶があって、そんなに――」
ずっと、憧れていた。白くない髪が欲しいと思っていた。
「綺麗な――綺麗で、美しい御髪なのに」
王が、溜息をついた。
「あのなぁ、セフィー」
それから、苦笑した。
「蒼い髪は神聖だから、本当は、綺麗とか綺麗ではないとか、そういう評価はしてはいけないんだぞ」
「えぇっ? もったいない」
言ってから口を手で押さえた。自分はなんて無知で愚かなのだろう。
だが王はそんなセフィーを叱らなかった。それどころか、笑い始めてしまった。
「私が悪かった」
白い――と言っても、長い間外に出ていないのか日に焼けていないだけの、セフィーの白さとは違う手が、セフィーの頭を優しく叩くように撫でた。
「そう言ってくれて、嬉しい」
「誰も言ってくれなかった」と、彼女は言った。
「この色が、自分に合っているかも、分からない――遠い昔に、兄に褒められたきりだからな」
女性の髪を褒めないのはおかしなことだとセフィーは思う。まして本当に艶やかで綺麗なのだ。
次こそ、セフィーはためらいなく「お似合いだと思います」と言った。
「目が、冴えるようで。陛下は、とても、はっきりと、お話しになるし――中性的、といいますか、えっと、女の子の弱っちくてふにゃふにゃしたところが、ありません、から」
王は今度声を上げて笑った。セフィーには何がそんなに楽しいのか分からなかった。
「そんなことを気にしているのか? 私は女の子は弱っちくてふにゃふにゃの方が可愛いと思うが? セフィーはそのままで充分だ」
どうやら、彼女の目にはセフィーが弱っちくてふにゃふにゃに見えるらしい。セフィーは心の中でこっそり男なのにと涙を流した。
「でも、髪は本当にいつか切ってもらおう。座ると尻の下に挟まって鬱陶しいし、聖なる蒼い髪にも残念ながら枝毛ができる」
言いつつ、自ら衣の下から髪を出した。そんな畏れ多いことを自分がしてもいいのだろうか。この髪は蒼い以前に女性の髪なのだ。
突然「手を出せ」と言われた。セフィーは何も考えずに慌てて両手を出した。
次の時、その両の手の平の上に、蒼い髪を一房、何でもないことのように軽くのせられてしまった。
ぎょっとしたが振り払うわけにもいかない。
「ほら、触った」
王が手を離した途端、滑らかだが強い弾力のある意外と重い一房は、自らセフィーの右手と左手の間をするりと抜けていった。
手の上にのせられていた部分を見た。白くなったりなどはしていない。
「これでもういいな」
「そ、そんなぁ」
でも、安心したのは確かだ。自分が触れても腐ったりはしないのだ。
「さぁ、櫛か何かを持ってきてどうにかしろ。こんな頭では髪が邪魔で飯を食えない」
「はっ、はい!」
セフィーは慌ててルムアに持たされた箱を開けた。そこに大きな櫛も収められていた。
櫛を取り出しつつ、セフィーは、『旅する見世物小屋』のみんなのことを思い出した。
アッディーンや双子は蒼い髪の王の存在を疑っていたが、王は本当に見事な蒼い髪をしているのだ。彼らに見せてあげたい。見せてあげられなくとも、せめて自分がこの目で見てこの手で触れて確かめたということを伝えたい。
みんなは今どうしているのだろう。まだアルヤ王国にいるのだろうか。王国にいる間にもう一度会いたい。会って、元気だから安心して、と伝えたい。
いつになったら帰れるのだろう。
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