8:夢の続きを 4

 限界が近づいてきていた。疲労はもうぎりぎりまで溜まっている。

 シャムシャは、セフィーの部屋に入ると、セフィーの眠る寝台の脇の床に腰を下ろして、寝台の上に肘をついた。

 セフィーの顔を見た。思っていたよりも痩せこけていた。このままでは本当に死ぬだろう。だがどうしたらいいのか分からない。そう思うと、蒼い髪と王の位をもつシャムシャよりルムアの方がずっと偉大だ。

「セフィー」

 名前を呼んだ。もちろん、返事はない。

「私は、ルムアを追い詰めてしまった――の、だろうな。なあ、どう思う? ルムアの目が覚めたら、私はどうしてやったらいいと思う?」

 シャムシャはそこで、瞬いた。

 自分がこんな風にセフィーの意見を求めたのは初めてかもしれない。

 自分はいつも、セフィーを急かし、時には怒鳴り、勝手に答えを限定して、考える時間をほとんど与えていなかった。

 昔、何かの本で読んだことがある。人間は文字を得たことで、複雑なこと、抽象的なことも考えられるようになったらしい。もしそれが本当だったら、文盲のセフィーはたいへん混乱していたことだろう。セフィーにはゆっくり考えさせてやることが必要だったのだ。

 セフィーが一つのことを言い終わるまでルムアが何も言わずに待っているところに遭遇したことがある。ルムアは、急かすと焦って意見が言えなくなってしまうということを、知っていたのだ。

「ごめんな」

 失って初めて気づく、というのは、こういうことかもしれない。後悔ばかりが募る。

「私が悪かったんだな」

 セフィーの手を握った。温かかった。まだ生きているということだ。それに安堵する。

 セフィーが生きていてくれるのなら、自分は何でもするだろう。これからルムアに習って直接的に世話をしてやってもいい。このまま自分の生活にかける時間がなくなってもいい。食事より睡眠よりこうしてセフィーと同じ空間にいるということが何よりもの癒しだ。

 セフィーの前髪を撫でた。少し伸びているようだった。

 生きているからだ。

 視界がぼやけた。

 どうしても、彼が愛しい。

「セフィー」

 その、次の時だった。

 セフィーが、目を開けた。

 シャムシャは久しぶりにセフィーの紅い瞳を見て驚いた。叫びそうになってしまった。

 何とかこらえた。

 セフィーを驚かせてはいけない。セフィーを焦らせてはいけない。目を開けたからといってセフィーが元気になったわけではないのだ。

 声量を抑えて問い掛けた。

「どうした? 機嫌がいいのか?」

 彼は、口はまったく開けようとしなかった。何も言わず、表情も変えずに、ただ、シャムシャを見ているようだった。

 シャムシャは、それでもいいか、と思い直した。前向きに考えることにした。こうして少しずつ目を開けていられる時間が長くなればいい。

「なぁ、セフィー」

 それでもいい。生きてさえいてくれれば何でもいい。

「何か欲しいもの、してほしいことはあるか? 私が何でもしてやる、どんな望みも聞いてやる。だから、たまにはわがままを言ってみろ」

 答えが返ってくることはないと分かっていながら訊ねた。ただ、自分にはセフィーのすべてを受け入れ直すつもりがあるのだということを、知ってほしかった。

 生きてくれるのなら何でもよかった。セフィーが何もかも面倒だと言うのならずっとここで寝ていてもいいし、王妃としての仕事や結婚生活が嫌なら離縁してどこか遠くで静かに暮らしてもらってもいい。

「何でもいいんだ。セフィーが、そうしたいのなら」

 次の瞬間だった。

 声が、聞こえてきた。

「……――て」

 思わず目を丸くした。身を乗り出し、セフィーの顔を凝視した。

 セフィーの唇が動いている。

「――して」

 鼓動が早まった。跳び上がりそうになった。

 セフィーが喋った。セフィーが何かを要求した。セフィーが自分に何かを求めている。

 どうしよう嬉しい。

「なんだ!? どうした、もう一回言ってくれ、よく聞き取れな――」

「殺して」

 何と言われているのか、分からなかった。

 分かりたくなかった。

「殺して。ぼくもう死にたい」

 それきり、セフィーはまた、目を閉じた。



 セフィーの望みなら何でも叶えてやりたい。

 セフィーが生きてくれるのならどんなことでもする。


 セフィーの初めての望みは死ぬことだ。

 セフィーは、最初で最後に、死を望んでいる。

 セフィーは何より、生きていたくない。


 死。

 終わり。その先はない。

 その方がセフィーは楽なのだろうか。



 シャムシャは剣を抜いた。

 一晩寝ないで考えたが、もうどうしたらいいのか分からなかった。

 ただ、セフィーの望みを叶えてあげたかった。それがすべてだ。

 刃が月光に輝いた。

 どんな犠牲も厭わない。自分自身が犠牲になってもいい。

 それでも、セフィーの望みを叶えてやるべきだ。

 セフィーが、望んでいるのだ。

「セフィー」

 セフィーが珍しく、自分の呼びかけに応じて目を開けた。それが嬉しかった。

 自分は、本当に、幸せだったのだ。

 セフィーの笑顔にどれだけ癒されたかしれない。セフィーの言葉にどれだけ支えられたかしれない。セフィーがこの世に存在していることにどれだけ感謝したかしれない。

 それも、終わりだ。

「セフィーは、ずっと、つらかったんだ、よ、な」

 もう、終わりだ。

「ごめんな。……ありがとう」

 セフィーが、目を、閉じた。その表情がひどく安らかに見えた。

 手が震えた。

 それでも、やらなければならない。

「……あ」

 セフィーが望んでいるのだから、望みを叶えてやらなければならない。

「あ、あああああ」

「何をしている!?」

 怒鳴り声に驚いて手を止めた。

 手首をつかまれ、剣をむりやりもぎ取られた。剣が床に叩きつけられる鈍い音がした。

 寝台から引きずり下ろされた。

 顔を上げたら、月光に照らされて真っ青な顔をしているライルが立っていた。

「何をしようとしていた!?」

 シャムシャは、床に座り込みつつ、答えた。

「セフィーが、殺してくれと、言うから……。そうしてやらないと、と、思って……」

 頬に熱い衝撃が走った。

 ライルに打たれた。

 そう認識しても、今ばかりは何とも思えなかった。

「なあ、ライル」

 もう、疲れてしまったのかもしれない。

「セフィーを殺して私も殺してくれないか」

 「できるわけないだろう!?」と怒鳴られた。

 強い力で引きずられた。

 抱き締められた。

 シャムシャはされるがままにした。もう何かをする気力が残っていなかった。

「そんなことをしても何にもならないだろう!? 残されたルムアやナジュムや、俺は、いったいどうすればいい!? お前らのせいで一生っ、一生つらい思いをするんだぞ!?」

「でもセフィーは死にたいんだ」

 それが初めて望まれたことだ。

「セフィーが死んだら……、セフィーがいないのに、私は、自分がまともに生きていける気がしない」

 これが報いだ。

「セフィーのためにすべて、本当にすべてを捨ててしまったんだ。自由も、体面も。夢とか、女であることとか。ハー兄様とセータ兄様まで殺してしまった」

「馬鹿っ」

 自分を抱き締める腕が強くて痛かった。

 だが、痛いということは、生きているということだ。

 セフィーは今、それを手放そうとしている。

 痛みを感じないということは、幸せなことかもしれない。そう思うと、自分は、セフィーに生きていてほしいという自分の望みより、セフィーの死にたいという望みを優先させてやった方が良い気がしてならない。

 セフィーには安らかでいてほしいのに、他ならぬ自分がとてつもなく残酷な要求をしている気がしてくる。

「お願いだライル。私ももう楽になりたい」

「そういうことは二度と言うな」

 「畜生」と言うライルの声が震えている。

「お前は絶対不幸になんかさせてやらないからな。お前は俺の大事な妹だ、もう二度と死にたいなど言わせてやらない」

 痛い、ということは、生きている、ということだ。

 痛みを感じる。

 痛みも、悲しみも、寂しさも、悔しさも、感じられる。

 ライルの優しさとか温かさとか、そういうものも、感じられる。

「それだけは絶対にだめだろう!? それだけはやってしまったら終わりだ、終わりなんだぞ!?」

 もう、どうしたらいいのか、分からなかった。

 とりあえず泣きたくなったので、ライルの胸に縋って泣いた。ライルは強く抱き締めていてくれた。

「お前はひとりじゃない。俺がいる。ルムアとナジュムもいる。だから、勝手に死ねると思うなよ。セフィーもだ。ただし俺に後を追いたくなるくらい後悔させてもいいと思うのならもう止めない」

 温かい――生きている。

「ごめんなさい」

「分かればいい」

 「つらかったな」と言ってもらえた。背中を撫でてもらえた。それに安堵した。

「疲れてるんだろう。こういう時には何も考えるな」

 このひとがいてくれてよかった。

 しかし、なぜいてくれたのだろう。

「どうして、お前がこの部屋に?」

 ライルが「ルムアが倒れたと聞いて今日一日俺がセフィーの世話をしていた」と答えた。

 シャムシャは慌ててライルから身を離してライルの顔を見た。

 その、慌てて動いた瞬間、一瞬だけ、世界が歪んで見えた。目眩だろうか。疲れているようだ。

 だが、今体がつらいのはおそらく自分よりもライルの方だろう。

「と言ったって、お前だってまだセータ兄にやられた傷が――」

「そんなことを言っている場合ではないだろう? もう俺しか手の空いている者がない」

「でも、」

「セフィーを死なせたら、絶対にいけないだろう?」

 シャムシャは目を閉じた。目眩がする。涙で視界がぼやけたのもある。泣き過ぎたのだろう。きっとそうだ。

「……ありがとう……」

「だから、殺さないでくれ」

「んー……」

 おかしい。

 気持ちが悪くなってきた。

「……ライル」

「ん? どうした?」

「は……吐きそう」

「は!?」

「なんだ、気持ち悪……」

「疲れているんじゃないのか?」

 ライルの声が、だんだん遠のいていく。

「少し熱っぽいようだし、お前も少し休――」

 頭の中が真っ白に、目の前が真っ暗になっていく。

「シャムシャ?」

「私、どうし――」

 どうしたのだろう――そう言い終わる前にシャムシャは意識を手放していた。

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