8:夢の続きを 3
シャムシャは疲れた体を引きずるようにしてセフィーの部屋に向かった。どうしてもセフィーの顔を見たかった。
今、シャムシャとセフィーは寝所を別にしている。セフィーをゆっくり寝かせておいてやりたかったからだ。最近、シャムシャは、朝早く起き、深夜まで仕事をしている。対してセフィーはまず起きることがない。ごくたまに目を開けるだけだ。特別な世話も必要になった。
シャムシャは戸を開けてぎょっとした。ルムアがセフィーに口づけていたからだ。
シャムシャが口を開こうとした時、ルムアがシャムシャに気づいて振り返った。
「あらシャムシャさま」
「今、何をしていた?」
「セフィーのお食事のお手伝いです。口移しで食べさせてるですよ」
眉間に皺を寄せた。
「セフィーは自主的に食事をしないのか?」
ルムアは苦笑して、頷いた。
「食べ物を口に入れても、食べてくれないので。噛み砕いて、口の奥に押し込むようにして、飲み込ませるです。出してしまうことも多いのですが、ねー」
食事は生きていく上でもっとも基本的な行為だ。生命を維持するために必要なことだ。セフィーは、今、それさえ放棄している。
「まるで大きな赤ちゃんですね」
寝台に座り込んだまま、ルムアがセフィーの長い白髪を撫でた。
「お手洗いにも行ってくれないので、ルムアが始末をしてあげてるです。まぁ、最近はあんまり食べたり飲んだりしてくれないので、出るものも出ないようですけど」
シャムシャは、床の絨毯の上に座り込み、ルムアに苦笑して返した。
「私は、なんだかんだ言って、旦那の下の世話さえしてやれない女なんだな」
ルムアは「仕方ないですよ」と言って首を横に振った。
「シャムシャさまにはお仕事がありますし、ルムアにシャムシャさまのお世話をさせてくださらないんですもの。それに、赤ちゃんのお世話なら、やり方は分かってるです」
「どこで覚えたんだ」と問うたら、「母にしつけられたですよ」と微笑んで答えた。
「ヌーラはなぜそんなことを?」
一瞬、ルムアの表情が曇った。それを見てシャムシャは焦った。つい先日ヌーラの訃報が届いたばかりだ。なぜ忘れていたのだろう。そう言えば、今、ルムアの顔色があまり良くない気がする。母の死を経てもなおセフィーの世話で働き通しとなれば疲れていてもおかしくない。
「ルムア、すまない、私――」
「何を謝るですか、何にもないのに」
ルムアは強い。シャムシャは彼女が泣いたり弱音を吐いたりしている姿を見たことがない。いったいどこで発散させているのだろう。
そんなルムアだから甘えてしまうのだろうか。
本当にこのまま甘えていてもいいのだろうか。本当はルムアも自分を負担に思ってはいないだろうか。自分はこれ以上ルムアへの負担を増やす気なのか。
だがもうルムアしか頼れる人間がいない。
「実はですねぇ」
ルムアが笑顔を取り戻す。
「いつか、シャムシャさまが、御子を授かった時に。ルムアはその、シャムシャさまのお生みになった御子のお世話をさせていただきたいのです」
頭を抱えてしまった。今この瞬間にこの状況でそんなことを言われるとは思ってもみなかった。冗談だと言ってほしかった。
ルムアが「シャムシャさまっ?」と言って寝台からおり、シャムシャのすぐ傍にしゃがみ込んだ。
「どうなさいました? 顔色が優れません」
「ルムアすまない」
「シャムシャさま?」
「本当に……、私……、ごめんな……っ」
優しく「どうなさいました」と言いつつ、彼女はシャムシャを抱き締めた。
「大丈夫ですよ、シャムシャさま。ルムアの幸せはシャムシャさまのお役に立てることです。少し形が変わるくらいでは何ということもないですよ」
シャムシャは泣き出したいのを奥歯を噛んでこらえた。
セフィーの顔を見た。
誰かを否定するということはこんなにも重いことなのだと、シャムシャは思った。誰かを否定すると、自分が否定されるだけでなく、自分の周りのすべてが否定されることもある。
シャムシャがやったことの報いをずっとシャムシャの傍にいたルムアまで受けている。
一人で国を動かそうとすればその分ひずみが生まれる。そのひずみのふちにルムアが立たされている。
それでも、
「お前に、頼みが、ある」
もう後戻りはできない。
すべての罪を噛み締めながら進まなければならない。
「話を、聞いてくれないか」
ルムアは何ということもなく頷いた。
「何ですか、おっしゃってくださいな」
「私はもう二度と女に戻るつもりはない」
それまでシャムシャの背を撫でていたルムアの手の動きが、止まった。
「私は、セフィーがこうである限り子供を産まない」
「……そんな――」
「だが、私は兄二人を殺してしまった。アルヤ王家直系の血を引く者はもう私しかない。私が子供を生まなかったら王家の血が絶える――と、思っていた。……よく、考えたら、」
引き剥がすようにしてルムアを離した。
ルムアは目を見開いて黙っていた。
その見開かれた目を見て、シャムシャは声を震わせた。
「お前の目も、蒼い、な」
ルムアの唇も一瞬震えた。こんなに反応の鈍いルムアを見たのなど初めてだ。シャムシャは深く悔いた。「やっぱりいい」と言ってルムアから顔を背けた。
次の時、ルムアは、「シャムシャさま」と、優しい声を出した。
「何をおっしゃっているですか」
「そうだな、私、どうかして――」
「そんな回りくどいことはおっしゃらずに、一言で命令なさいませ。王家のために子を産め、と」
ルムアの顔を見た。ルムアは穏やかに微笑んでいた。
「それがシャムシャさまの望みなら、シャムシャさまの御心に沿うのなら。シャムシャさまのなさりたいことに手をお貸しできることになるのなら、」
「ルムア……」
「ルムアは、本望なのです」
涙が溢れた。
自分はなんとちっぽけで愚かなのだろうと思った。
ルムアに守られてきた。ルムアに支えられてきた。ルムアがいたからこそ、今日の今の自分がある。ルムアが傍にいてくれたからこそ、ルムアが自分を肯定してくれたからこそなのだ。
誰かを否定して、踏みつけて押し潰して傷つけて傷つけて傷つけて生きてきたシャムシャを、ルムアは受け入れてくれる。
これが、愛なのだろう。
シャムシャの頬の涙を、ルムアの小さくて柔らかな少女らしい手が、拭ってくれている。
「私は、最低だ」
「ルムアの大事なシャムシャさまにそんなことはおっしゃらないでください」
「お前の人生をめちゃくちゃにしている」
「ルムアはそう思ってはおりません。シャムシャさまに使っていただくことこそがルムアの喜びなのですから」
ルムアの顔を見ているのがつらくなってシャムシャは立ち上がった。
「今日はもう休みたい。……本当にすまない」
ルムアが「かしこまりました、おやすみなさいませ」と言った。
「あ、でも、シャムシャさま。一つだけお聞かせくださいませ」
「なんだ?」
「どなたの子をお生みすればよろしいのでしょうか」
戸を開けつつ、シャムシャは「ナジュムとよく話し合ってくれ」と告げた。ルムアは明るい声で「ナジュムさまですねっ、了解しましたーっ」と答えた。
「ルームーアっ」
名前を呼ばれてルムアが振り向いた。
ルムアの歩いてきた方から、大量の書類を抱えたナジュムが、小走りで近づいてきていた。
「お久しぶりです、お元気そうで何よりです! そろそろ働くのが嫌になって干からびておいででないかと心配してたですよ!」
「本当だね、何十年くらいぶりだろう!? 最後にライルと三人でお茶をしてからまさか半年も経っていないだなんてあるかい!?」
そこで、二人揃って溜息をついた。
「あー馬鹿馬鹿しいです。ほんと、ナジュムさまとお喋りしていると何もかもが馬鹿馬鹿しくなってくるので、ナジュムさまって貴重なお方なんだなーと思えてくるです」
「褒め言葉だね、最高だよ、僕のことが大好きだということだろう」
「はいはい好きです好きです」
ナジュムが「調子はどうだい?」と訊ねてくる。
「顔色はあまり良くないようだけれども」
ルムアが肩をすくめる。
「最近疲れているのか食欲不振気味でして。食事が不規則だからか月のものも遅れがちで、今後のことを考えるとどこかで改善しなければと悩んでいたところですよ」
「いや、君の場合はこの状況で疲れていない方がおかしいよ。休んだらどうだい? そのうち過労で死ぬよ、過労で」
「いやーんっ、もっと幸せな死に方がいいですーっ」
「まったくだね」と言いつつ、ナジュムが歩き出した。ルムアは「半分お持ちしましょうか」と言ったが、彼はそれを「女性に荷物を持たせる男にはなりたくないな」と言って断った。
「実は君に話があってずっとさがしていたのだよー。最近南の塔にこもりっぱなしで、こっちに戻ってきても君が陛下と一緒にいないようだったから」
「あー、ずっとセフィーのお世話のためにセフィーのお部屋にこもっていたので、すみません。にしても奇遇ですねぇ、ルムアもナジュムさまとお話ししたいことがあったので、そろそろ出現しないかなーと思っていたところですよ」
「はっはっは、……同じ話題の予感がする」
「ルムアもです」
二人は、また、揃って溜息をついた。
「陛下から、聞いたかい?」
「ええ」
「引き受けた……のかい?」
「はい。一も二もなくすぐにお受けしました」
「悩まなかったのかな」
ルムアはしばし黙ったあと、「ナジュムさまは」と訊ねた。ナジュムも少し、間を置いた。
「この前、実家に帰った時、」
一度言葉を切り、苦笑する。
「ある女性と、結婚しようと思ったのだけれども。正式にしてしまう前でよかったな、とは、思った」
「その方は、年上ですか?」
「年上です。未亡人の綺麗なお姉さんです」
「ですよねぇ、ナジュムさまはそういう方がお好みなんですものねぇ……ぴっちぴちの十五歳ですみません」
「ルムアは迷いませんでしたけど」と言った。
「ライルさまじゃなくてよかったなー、とは思いました。ライルさまが可哀想すぎるので……」
「気が合うね、僕もそう思った。僕が全力で止めただろうね」
「いいのですか?」
ナジュムは「君さえいいのなら」と答えた。
「ただ、一つだけ、条件がある」
「何です?」
「僕と結婚してほしい」
ルムアは足を止め、ナジュムの方を見た。ナジュムはルムアをまっすぐ見ていた。
「僕と二人で一生完璧な嘘をついていてほしい。まるであたかも前から僕らが愛し合っていたかのような顔をしていてほしい」
「それは」と、ルムアが訊ねた。
「ライルさまのため、ですか?」
ナジュムは頷き、苦笑した。
「真実を知ったらライルは動揺するだろう。止められなかった自分を責めるだろう」
「そうでしょうね。それは、ルムアにも分かります」
「それに、お互いのためでもあると思う。僕は僕自身の保身のために君を全力で守る。君もフォルザーニー家の者に守られていた方が安全ではないかな」
「そのとおりですね……」
「ただ、」
次の時、ナジュムは、右手で書類を抱えたまま、左手でルムアの手首をつかんだ。
「もし、君に、他に想い人があるのだと言うのなら――」
「あ、それはお気になさらず。こういうこともあろうかと、過去に何度か寝ておきましたので」
「……あのねぇ……いや僕は何か言えるような立場にはないけれども――」
ナジュムはそこで、言葉を切り、目を丸くした。
ルムアの目の焦点が合っていないことに気づいたからだ。
「ルムア!?」
書類を放り出して腕を伸ばしたが間に合わなかった。
次の瞬間には、ルムアは床に崩れ落ちていた。
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